21世紀の林竹二

 後期の授業が始まった。ワークショップ系の授業は特に楽しい(疲れるけど)。
 「絵本製作」の1回目で学生に書いてもらった感想に、「あまり今まで受けたことのない感じの授業だったので新鮮で面白かったです。」とあった。ありがたいことだ。
 「他の授業と違う」「変わった授業」という感想はよくもらう。
 大学の授業はいろいろだが、担当者が自分が大学で受けた授業を参考にすることが多いだろう。
 私もご多分に漏れない。宮城教育大学でワークショップ型の「変わった授業」をたくさん受けた経験が、今役に立っている。

 推薦入試で斎太郎節(さいたらぶし)を踊った(落ちた)。体育の授業に「山野歩走」という大学周辺の山を駆け巡る種目があった。3・4年生で選んだゼミは午後3時から9時まで続く「終バス演習」だった。
 大学は楽しかった。自分が担当する授業でも、ぜひ学生に楽しんでもらいたいと思っている。

 自分の経験を含むエピソードを集めて『教育の冒険 林竹二(はやし たけじ)と宮城教育大学の1970年代』という本を書いた。出版した2003年と、10年後の2013年の2回、大学の同窓会総会に呼ばれて講演をした。恩師や、学校の管理職となった同窓生たちの集まりで、講師の自分はフリーライター。場違い感に溢れていた。

 改革に熱心だった大学と、その礎を築いた学長・林竹二のことを、一般の人に知ってもらいたくて本を書いた。しかし時代は変わる。広く共感を得ることも、後世に伝えることも難しいだろうと、実は思っていた。
 ところが最近ネットで林竹二を検索してみて、その後もちゃんと注目されていることを知った。

◇「林竹二の学問観 と宮教大の教員養成教育改革」遠藤 孝夫
『弘前大学教育学部紀要』第95号 :13-124(2006年3月)
https://hirosaki.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2297&item_no=1&page_id=13&block_id=21

◇大谷大学 教員エッセイ きょうのことば [2011年04月]
「学んだことの証しは、ただ一つで、何かがかわることである。」
 林 竹二(『学ぶということ』国土社 95頁)
https://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq000001d7vo.html

◇京都大学大学院 修士論文「林竹二の授業論の検討」松本匡平
『教育方法の探求』 (2016), 19: 31-38
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/226083/1/hte_019_31.pdf

◇科学研究費助成事業
「林竹二の授業実践に関する研究-実践記録、資料に基づいて-」(2019年)
研究代表者:松本 匡平 ヴィアトール学園洛星中学校高等学校, 教諭
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-19H00047/
研究成果報告書
https://kaken.nii.ac.jp/file/KAKENHI-PROJECT-19H00047/19H00047_2019_seika.pdf

 最後のものは「教育学者林竹二(1906-1985)が残した膨大な授業実践記録とそれに付随する資料を画像として総計12万枚以上をデータ化した」(研究成果の概要)という、すさまじい研究だ。林の遺族から宮城教育大学に提供されて保存されていた紙の資料を全てスキャンしたそうで、大学のスタッフに加えて「のべ21名の大学生に助力を頂いた」とのこと。
 21世紀も、林竹二の仕事が忘れ去られることはなさそうだ。私はそのことを、ひそかに喜んでいる。

大学生のための文章講座 02

現代社会学科1年前期「現代文章表現」まとめ《後半》

「何を書くか」の次は「どう書くか」です。
「どう書くか」、つまり表現については、とにかく「読みやすく分かりやすく」書きましょうと、繰り返し言ってきました。
それでは、どう書けば「読みやすく」なるのか。これもたくさんありますが、まずは3つ、でしたね。

①文を短く
②「です・ます」と「だ・である」を混ぜない
③書き言葉で

①は「短ければ短いほど良い」とまでは言えませんし、「何文字まで」とも言えません。しかしとにかく皆さんの書く文には、長くて読みにくいものが多いのです。指定が200字だと、一つの文になってしまう人までいます。もちろん、表現の技術としての長い文はあり得ます。しかし皆さんの場合、自分でもよく分かっていないことや、整理がついていないことを書いたために長くなってしまったという場合がほとんどです。まずは内容を整理して、文を短く刻みましょう。

②文末を「です・ます」などで終えるのが敬体、「だ・である」などで終えるのが常体ですね。指定されない限りどちらを使っても良いのですが、この授業では必ず統一してください。これも表現の技術として混ぜることがあり得ます。しかし皆さんの書く文章では、何となく混ぜてしまったために、読みにくくなっているものがほとんどです。作文の苦手な人は、敬体と常体のうち、そのたびごとに自分が書きやすい方の文末で書いてしまいがちです。書く方は楽ですが、読む方は読みにくいのです。作文の苦手な人には、どちらかと言えば敬体をお勧めします。話す表現に近いので、書きやすいと思います。

③は「書き言葉で」です。「話し言葉」は変化が速く「書き言葉」は変化が遅いという特徴があります。皆さんが書く文章を読む人は、同世代ではなく70歳代かもしれません。昔からある言葉や、社会に定着している言葉を使った方が、幅広い年代の読み手に伝わる可能性が高くなります。まずは、いわゆる若者言葉や流行語を避けてください。確かに最近は新聞でも、「ため口」などが説明なしに使われることがあります。便利だし言い換えが難しいのですが、頑張って表現を工夫してください。また流行語は、定着する可能性より消え去って意味不明になる可能性の方が高いので危険です。二つ目は「ら抜き言葉」を使わないことです。「ら抜き言葉」は会話では定着しつつありますし、文法的に間違っていると言うこともできません。しかしまだ、大学のレポート、就活の作文、ビジネス文書など、正規の文章では違和感を覚える人が多数派です。「来れる」「食べれる」ではなく「来られる」「食べられる」と書いてください。三つ目は敬語と人の呼び方です。私の「お母さん」ではなく「母」、バイト先の「おばちゃん」ではなく「女性従業員」、ボランティア活動で出会った「おじいさん」ではなく「高齢男性」、などです。会話の記述など、それぞれ前者が許容される場合はあります。しかし基本的には後者を心がけてください。

「読みやすく」については、まずは以上の3つを守りましょう。

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次は「分かりやすく」です。
どう書けば読み手は「わかる」のかを、この言葉に即して説明します。

まず目指すべきは「解る」です。分解の解という字を書いて「わかる」と読みますね。
相手が初めて触れる情報は、伝えるべき内容を整理し、相手が知っているレベルの情報にまで分解し、それを組み立てて伝える必要があります。

「語彙」という漢字を知らない人に、電話で解ってもらう場合を考えてみます。
「語」は「国語の語、語るの語」で分かってもらえるでしょう。しかしあえてパーツに分解すれば、へんとつくりになります。「ごんべん+われ」で伝わらなくても、「左は言う、という漢字で、右は漢数字の五の下に口」と言えば間違いありません。
しかし「彙」は強敵です。真ん中の「ワかんむり」と下の「結果の果、果実の果」は大丈夫でしょうが、一番上はおそらく相手が見たこともないパーツです。これは「お互いの互という漢字から、上の横棒を取ったもの」と伝えるしかありません。電話の向こうの相手が実際に書いてみて、理解してくれることを祈りましょう。
伝えたい内容を、一度分解して組み立てて見せるように説明すると、「解りやすい」と思ってもらえるはずです。

次は「分かる」。私は基本的に、この表記を使っています。
分かるとは、分けられる、つまり区別がつく、ということです。
相手が「解る」ようにと、その内容をいろいろ言い換えてみることは、もちろん有効です。辞書の説明がそうですね。
しかし「今まではこうでしたが、これからはこうです」とか、「日本ではこうですが、その国ではこうです」のように、対比させて説明した方が伝わることが多いのです。
くどくどと説明を連ねるより、同じ字数を使うなら、「AでもBでもなくて、Cなのです」という説明の仕方を試みましょう。

最後が「納得」です。
私たちが本当に「わかった」と思うのは、「なるほど」と感じたときです。
日本語には「腑に落ちる」「胸に落ちる」「腹に落ちる」という良い表現があります。最近の言葉で言えば「ハラオチ」ですが、作文では使わないでくださいね。「説明がのみこめない」「その条件ならのめる」という表現もあります。つまり人間は、実は頭ではなく体で「わかる」のです。
コミュニケーションを目的とする文章のゴールは、読み手に「解ってもらう」ことでも「分かってもらう」ことでもありません。「納得してもらう」ことなのです。
そうした文章を書くには、自分自身が文章を読んで納得した経験が手がかりになります。どのように説明してあるのかをしっかりと理解し(解る)、他の説明の仕方と区別し比較した上で(分かる)、その文章に学びましょう。
「どうすれば良い文章が書けるようになりますか」という質問に対する私の答えは決まっています。「良い文章を、できるだけたくさん、気をつけて読んでください」です。

「分かりやすく」の説明は以上です。

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14回のうち前半7回のテーマは「コミュニケーション能力としての文章力」でした。後半の7回は、これに「考える力としての文章力」が加わりました。

私たちは普段、ものを考えていません。ほぼ習慣や欲求に従って体を動かしています。それで済みますし、頭の省エネになるからです。
しかし文章を書くときは、考えないわけにはいきません。ラインに「りょ」とか「それな」と返すだけなら考えずに済みますが、単位がかかったレポートや記述式の試験の答案を書くときは、それでは済まないのです。

考えずに書くと、感じたことや思ったことをそのまま書いてしまいます。小学校で書いた読書感想文や遠足の思い出は、それで良かったのです。大学入試の小論文に、「高校では部活を頑張って、継続することと仲間と協力することの大切さを学びました。この経験を生かして大学でも勉強を頑張ります」と書いた人もいるでしょう。それで通ったのですから、それで良かったのです。
しかし大学の授業では、これでは通用しません。文章の途中には感じたことや思ったことを書いても良いのですが、まとめには必ず「自分の頭で考えたこと」を書かなければならないのです。

第8回ではその実例として、大学の先生が「経験に基づいて考えたこと」を書いた文章を読んでもらって、それを要約してもらいました。
そして第9回からは、毎回「経験に基づいて考えを書く」練習をしてもらいました。
自分の経験を書かずに済ませたり、感じたことや思ったことをまとめに書いた作文をたくさん読みました。この授業では出来不出来で点数はつけませんが、毎回赤ペンで指摘しました。その結果、ほとんどの人が考えることの大切さを理解し、文章力が向上したはずです。

あなたが感じたり思ったりすることは、もちろん悪くありません。感受性が豊かであることや、自分はこう思うと主張することは、とても素晴らしいことです。しかし読み手の納得を求めて作文を書かなければならない時、自分の感覚や思いを押し付けて済まそうとするのは、ただの独りよがりです。
「自分の考え」は、自分とは違う立場や考えの人が読むことを想定し、その人の反論や違和感に対する答えを含む必要があります。そのためには自分の感覚や思いを客観視し、自分の考えを相対化した上で、文章にする技術を身につけなれければならないのです。

大学生はレポートや記述式の答案で、「事実に基づいて意見を書く」必要があります。これは社会人になっても変わりません。
そのための練習として、この授業では少ない文字数と短い時間で、「経験に基づいて考えを書く」練習を繰り返してもらいました。
基本は身についたはずです。
他の授業や後期以降の授業で、やがては就活や仕事で、その技術が皆さんの役に立つことを願っています。

以上でまとめを終わります。
お疲れさまでした。

大学生のための文章講座 01

現代社会学科1年前期「現代文章表現」まとめ《前半》

それでは最終回の授業を始めましょう。
現代社会学科1年前期、「現代文章表現」のまとめです(経営法学科・看護学科・リハビリテーション学科は「現代国語表現」)。

この授業では皆さんに、「大学で単位を取るための作文の書き方」を学んでいただきました。主に作文が下手な人、文章力がない人のためのトレーニングです。
授業では毎回、実際に作文を書いていただきました。
そして「誤字脱字があろうが文章が変だろうが、作文の出来不出来では評価しません。授業終了後にテストをしたり、レポートの提出を求めたりもしません。その回ごとの条件を守って、自分なりに頑張って作文を書いてもらえれば単位を出します。欠席2回までなら最高評価をつけますよ」と言い続けてきました。

これも最初に申し上げた通り、ターゲットはこの授業を受けている人の中で、一番作文が下手な人、文章力がない人でした。
あなたにもぜひこの大学を4年間で卒業して、第一希望のところに就職してほしい。1年分余計に学費を払うことになったり、不本意な就職をして結局やめてしまうようなことになってほしくありません。
そう思って授業をしてきました。

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小・中・高の次は大学、というつもりで入学した人もいるかもしれません。しかし大学での勉強は、高校までと全く違います。
①まず、文章を書けないと単位が取れず、永遠に卒業できません。
②次に大学の先生はプロの研究者で、その立場からあなたの文章を評価します。
③最後に、文章力がないと就職活動で勝ち目がありません。

①高校までと違って大学では、教科書や授業の内容を覚えるだけでは評価されません。レポートや記述式の試験があって、絶対に文章を書かなければならないのです。授業によっては、単語を答えたり、選択肢の中から選んだりする試験もあるかもしれません。しかしそれだけでは卒業できないのです。
あなたがいくらやる気があっても専門分野の知識や技術があっても、作文が下手だというだけで単位が取れません。しかし別に、読んだ人を感動させたり感心させたりする文章を書く必要はないのです。あなたの知っている情報やあなたの考えが、読む人にちゃんと伝われば大丈夫です。そしてそうした文章力は、練習で身につけることができます。それがこの授業です。
大学での授業に加えて、看護学科やリハビリテーション学科の皆さんは実習に行きます。すると毎日実習日誌を書き、実習先の病院の指導担当者がチェックします。それをクリアしないと実習の単位が出ません。
皆さんがいくら「自分なりに頑張って書いた」と言っても通りません。「何が書いてあるのか分からない」とか「何を言いたいのか分からない」と思われた場合、書き直しや再提出を命じられるのならまだ良い方で、いきなり単位を落とすことがあるのが大学なのです。

②小中高は教育機関ですが、大学は研究機関で教育機関です。小中高の先生が集まる部屋は職員室ですが、大学では職員というのは、学生課や教務課の事務職員の方を言います。大学の先生は全員研究者なので、それぞれの研究室(この大学では教員研究室)にいます。
研究機関は大学以外に、国や企業にもたくさんありますが、そこでは授業はしていません。そして教育機関としての大学は、日本では「研究者が研究者を育てる場」として始まりました。有利な就職、専門的な資格、同じ若い世代が集まる楽しさを求めて入学する人が増えた今も、その基本は変わっていません。
大学で授業をするのに資格はいりません。小中高は教員免許が必要ですし、授業の内容は文部科学省の定めた学習指導要領で枠が決められています。教科書は検定を通らないと使えません。
しかし大学では、極端に言えばどんな授業をしても構いません。その授業を担当した先生一人に任されているのです。もちろんあなたたち学生の評価も。
大学が違って担当している先生が違えば、同じ授業名でも全く違う内容、全く違う評価方法になります。教科書があれば教科書も別々で、何の本を教科書に指定しても構いません。なぜこうなっているかと言うと、「研究者が研究者を育てる」ためには、こうした方法が最も優れているということが歴史的に証明されているからです。
それでは大学の先生は、試験も資格もなしにどうやって大学の先生になったのかというと、研究者の集まりである学会で研究が認められたからです。大学の先生は、実は大学と学会の両方に所属しています。お給料は大学からもらっていますが、学会にはお金を払って参加します。研究者としての先生は、自分の研究成果を学会の集まりで発表したり、専門の研究雑誌に論文として発表するのが仕事です。そうやってお互いに評価し合い、競い合い、バトルを勝ち抜いて研究者になるのです。そうして日本の、世界の、学問・科学の発展に貢献しています。
趣味でスポーツをするのと、プロのアスリートであり続けることは全く違います。大学の先生はプロの研究者です。そして自分が上の世代の研究者から育てられたように、自分の研究領域で後継者となる若手を育てたいと願っています。それが大学教育の基本です。
皆さんの書くレポートや記述式の答案を読んで評価するのは、そういう人たちです。厳しくて当然です。高校までは先生が、あなたのことをよく知っていました。顔が思い浮かびましたし、「この子は部活を頑張っていて偉いんだよな」と思いながら、あなたの作文を読んでいました。しかし大学の先生にとっては、あなたの書いた文章が全てです。これは医療系の学科でも全く変わりません。

③就職活動で、皆さんは必ず履歴書を書きます。書式はいろいろですが、「志望動機」は必ずあります。そして先方の採用担当者は、そこをしっかり読みます。
医療系以外の人は、応募する時にエントリーシートを書きます。「自己PR」とか「学生生活で力を入れたこと」などです。先方の採用担当者は、内容だけでなく文章もチェックします。
公務員を目指している人は、筆記試験に作文があります。そして実は医療系と福祉系も、多くの場合は筆記試験で作文を書くことになります。「就活はまだ先だから、その時になったら練習しよう」では、おそらくほとんどの人は間に合いません。
学科・専攻によっては、就活が本格化する直前に作文講座があるかもしれません。しかし無いかもしれません。ぜひこの授業で基本的な文章力を身につけて、第一志望のところに就職してください。

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こうしたことを、授業の中で繰り返し話してきました。しかし中には、「とにかくこの授業の単位が取れればそれでいい」という人もいるでしょう。そうした人にも文章の腕を上げてほしいと思って、私なりにいろいろと工夫したつもりです。
まず14回のうち前半の7回は、「コミュニケーション能力としての文章力」にテーマを絞りました。

皆さんは「コミュニケーション能力」という言葉を、この授業以外でも何度も耳にしたでしょう。大学で学ぶ上でも、仕事をするためにも、とても大切だとされています。
しかしこの言葉は便利な一方で、人によってさまざまな意味で使われる、やっかいな言葉なのです。

①話す力・聞く力・書く力・読む力:つまり「言葉を使いこなす力」です。
②説明能力:自分が理解できるだけでなく、相手の知識や理解力に合わせて説明する力です。
③他人と力をあわせる力:チームで作業や仕事をする上で絶対に必要な力です。
④想像力:相手の立場になって感じたり考えたりする力です。

などなど、「コミュニケーション能力」という言葉は、この他にもたくさんの意味で使われます。英語をはじめとする外国語の能力や、ICT能力を指すこともあります。就職活動で皆さんが求められる「コミュニケーション能力」は、これら全てを含んでいるのです。

しかしこの授業では、シンプルに「伝える力」としました。
読み手に伝われば「良い文章」で、伝わらなければ「ダメな文章」というわけです。
そのため前半の7回は、説明文と報告文の練習をしました。「自分は知っていること・自分が体験したこと」だけど、「読み手は知らないこと」を伝える練習です。
第1回は1つ、第2回はもう1つ加えて2つ、と毎回条件を増やしながら作文を書くことで、文章で伝えることの難しさと楽しさを味わってもらうことが主な目的でした。
最終的に、条件は7つになりました。

①指定字数と制限時間を守って、
②読み手を意識して、
③具体例を挙げて、
④5W1Hに気をつけて、
⑤エピソードを選んで、
⑥まとめを工夫して、
⑦考えを書く。

作文は「何を書くか」と「どう書くか」の掛け算です。どちらかが0点だと、評価は0点です。
皆さんはこの授業に、「どう書くか」というテクニックを期待したかもしれません。しかし私がたびたび強調したのは、「何を書くか」の大切さでした。
「何を書くか」を内容、「どう書くか」を表現と言い換えれば、大学で単位を取ったり就職活動をするのに、表現力はそれほど求められていません。文章の上手さよりも、充実した内容が求められているのです。

従って、思いついたことを思いついた順番に書いてはいけません。あなたが天才でない限り、必ず失敗します。つまり伝わりません。
あなたは「自分では分かっている」し、「書きたくて書くわけではない」でしょう。しかし一方の読み手は、「あなたの頭の中身なんか何も知らない」し、「読みたくて読むわけではない」のです。
面倒でも、最初に書く内容を考える時間を取って、キーワードだけでも良いのでメモを作り、書く順番やまとめを決めてから書き始めましょう。

そしてこれまた面倒でしょうが、必ず見直して修正しましょう。
私は仕事で文章を書いているので、締め切りの前日には必ず完成させます。書き終えた直後は興奮しているし解放感もあるので、間違いなく目が曇っています。
一晩寝てから読み直すと、誤字脱字はあるし独りよがりな表現はあるしで、自分が嫌になります。しかしこの作業から逃れることはできません。

もしもあなたが何か文章を読んで「分かった」と思ったならば、それはその文章を書いた人が頑張ったからです。あなたも頑張ってください。誰よりもまず、あなた自身のために。
「何を書くか」の説明は、以上です。

学生気分

 「学生気分」という言葉は、良い意味でも悪い意味でも使われる。「いつまで学生気分でいるんだ」「学生気分が抜けない」などといえば、社会人としての自覚が足りないという意味だ。しかし「久しぶりに学生気分を味わった」「学生気分に戻れた」となれば、肯定的な意味合いを持つ。
 意味は正反対だが、どちらも学生が無責任であるところがポイントだ。社会人が無責任では確かに困る。しかし大人にとっても、責任を問われる心配なしに自由に言葉を交わす時間は楽しい。

 私はずっと学生気分のまま、とうとう還暦になってしまった。今はもう学生気分のまま年老いて、学生気分のまま死にたいと思っている。
 学生は無責任だ。少なくとも責任が軽い。しかし社会人として仕事や子育てなどに責任を持ってきた人も、やがてはその責任から解放されていく。つまり学生に近くなる。
 それならばいっそ開き直って、学生気分で残りの人生を生きるというのはどうだろう。少なくとも私はそうありたい。
 別に仕事や子育てから、完全にリタイアしていなくても良い。何だったら、まだ若くても良い。みんなが学生気分で生きたら、この国はもう少し明るく息がしやすくなる気がする。いわば「学生気分のススメ」である。

 学生気分で生きると決めたからには、無責任を満喫するだけではいけない。学生の本分は勉強である。だから勉強はしよう。
 これがまた面白い。人によっては無責任より楽しいはずだ。

 勉強で大切な事は3つある。1つ目はアウトプット、出力だ。とにかく何かを書く。発表したり教えたりする機会があればもっと良い。
 2つ目は仲間だ。共に学ぶ仲間ほどありがたいものはない。1円にもならないことを論じあったり、お互いに教え合ったりする。これほど愉快なことがあるだろうか。そうした関係が、深い友情や恋愛に発展しないとも限らない。
 3つ目は楽しむことだ。もしかしたら学生時代は、苦しい勉強もしたかもしれない。しかしもうその必要はない。楽しくない勉強は、たとえ途中でもやめよう。読み始めた本も最後まで読まなくて良い。そして自分が楽しくて、やめられない勉強だけを続けるのだ。

 脳トレもいいだろう。グラウンドゴルフもいいだろう。「終活」もいいだろう。しかし私としては、学生気分で生きることをお勧めしたい。
 本を読もう。インターネットで調べよう。そして読んだことや、調べたことを文章にまとめよう。それを誰かに読んでもらおう。インターネットで発表しよう。
 仲間を見つけよう。お互いに学び合おう。そして何よりも楽しもう。

 私は勉強は楽しいと思う。単に知らなかったことを知ったり、分からなかったことが分かるようになったりすれば、それはもちろん面白い。しかし私はそれ以上に、学ぶことそのものの中に、人にとって本質的な喜びがあるような気がしてならない。
 勉強するうちに自分が、本当の意味で世界と、そして歴史とつながっているように思えてくるのだ。こうした空間的な広がり、時間的な広がりを体感し、実感できるのが学びの最大の喜びだ。それは自分個人の生や死を越えた、広がりを獲得するということでもある。

 現実には老眼が進んで新聞を読むのも大変だし、30分も本を読んでいると目が痛くてたまらない。パソコンに向かって、ずっと同じ姿勢でいると腰が痛くなる。図書館に返さなければならない本があるのに、それすら億劫になることさえある。
 それでも私は残りの人生を、やはり学生気分で生きたいと願っている。

ゲルニカからゲルニカまで

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*2009年1月14日執筆

1981年までゲルニカの存在を知らなかった。
美術への関心は薄かったし、自分の絵の才能は小学生のうちにあきらめていた。

ピカソの絵とスペインの街ゲルニカを知ったのは、絵がニューヨーク近代美術館からマドリッドのプラド美術館に移されることになった、という新聞記事によってだった。
1937年にパリで描かれアメリカに預けられていた壁画は、スペインに自由が戻るまでは、というピカソの遺志(1973年没)によって、フランコ将軍(1975年没)支配下の故国に返還されることはなかった。しかし、ついにそれが叶う日が来たというニュースだった。

大学生だった私は「カッコいいな」と思った。
絵そのものは、記事に添えられた小さな写真を見て「ピカソらしいぶっ飛び方だな」と感じただけだ。人気のある芸術家であるピカソの、独裁政権に対する姿勢をカッコいいと思ったのだ。
だからこの年、大学の自治会執行部から頼まれて反核をテーマにした立て看(ベニヤ板の看板)を描くことになったとき「よし、ゲルニカを模写しよう」と考えた。

立て看にはいろいろなサイズがあるが、縦が2m、横が4.5mくらいの、最も大きいものに描くことになった。本物は3.5m×7.8mあるから縮小することにはなるが、それでも大仕事だ。
そう、それはお金をもらってやる「仕事」だった。

その年、馬鹿な私は馬鹿な友人や後輩たちに声をかけて、広告研究会という馬鹿なサークルを作った。学校の教員になろうと思って入った大学だったが、やっぱりやめてメディアを作る仕事に就こうと思ったのだ。後輩たちに「チキンラーメンはおいしい。広告を作るからと言って日清にサンプルをもらいに行ってこい」と言うと、彼らは本当に一箱もらってきた。ラーメンは1週間もしないうちに全部食べてしまったが、広告はできなかった。

絵心のある友人に「特に活動もないし、ヒマだから立て看でも描こうぜ」と言うと、彼はトラペンアップというものを持ち出してきた。OHPで投影するためのフィルムを印刷物から作ることができるという優れもので(当時実物投影機はなかった)、大学の備品だから先生に願い出ると無料で使えた。
彼は当時人気のあったイラストレーターの作品を拡大して下絵を描き、アクリル絵の具やエアブラシを使って立て看に仕上げてみせた。見事な出来だった。

「よし、これで稼ごう。」
私は学内のサークルにチラシを配って注文を取ることにした。演奏会などのPRに立て看を使う部はあったが、われらが広告研究会のテクニックは図抜けていたので、安いながら注文がいくつか入った。そして8月が来る前に、自治会執行部から「内容は任せるから反核をテーマに1枚」というオーダーをもらったのだ。

立て看は一晩で描く。
天気の心配があるから屋内で作業する必要があるが、私たちにはアトリエなんか無かった。授業が終わった後の教室を使って、朝、授業が始まるまでに仕上げて屋外に掲示するのだ。私たちの大学は当時、特に届け出をすることなしに、そういうことが認められていた。果てしなく学生を信用する、無茶な大学だった。
例の絵心のある友人と、私の二人で描くことになった。自治会執行部から、女子が一人見に来た。

立て看のベニヤ板から、前に描いてあった模造紙をバリバリとはがす。立て看を寝せる。糊を水で溶いて新しい紙に塗り、二人で広げながら貼って行く。乾くのを待つ。
立て看を立てる。部屋の灯りを落とし、用意してあったゲルニカの絵をOHPで投影すると、3人から「おおっ」という声が漏れた。原画にした画集のサイズで見たときには感じなかった迫力に圧倒された。
ゲルニカはほぼモノクロの作品だ。原画通りに画面を区切り、何種類かのグレーと黒で塗りつぶして行けば模写できるはずだった。絵心の無い私でも、これなら役に立つ。二人で手分けをして、映し出された輪郭線を鉛筆でひたすらなぞった。

一息つくたびにインスタントコーヒーを飲み、カップラーメンをすすった。そうして私たちは、一晩中ゲルニカを描き続けた。描くうちに、「これは凄い絵だ」ということが私にも分かった。
何が「凄い」のかは分からなかった。ただ、ピカソの、死んだ人々の、ゲルニカの街を爆撃した者たちの、人間としてのエネルギーが生で感じられるような気がした。
「これは凄い絵だな」と言うと、二人も同意した。

アクリル絵の具で塗りつぶしていくたびに、ゲルニカが徐々に姿を現す。
夜明けが近づく。時間との闘いになり、私たちは無口になった。徹夜だからもちろん眠い。しかし若さと興奮で乗り切った。

最後に下の空白に「HIROSHIMA,NAGASAKI 1945→1982」と、文字を入れて完成させた。大学の正門から見える真正面の芝生に運び出し、樹に立てかけて太い針金で固定した。
教室に戻って大急ぎで後片付けを済ませ、朝、学生たちが乗ってきたバスに乗って山の上の大学から降りた。一眠りしただけのつもりが、起きたら夕方になっていた。

私は思った。「いつかスペインにゲルニカを見に行こう。」
私はこの年21歳だった。まだ若く、そのうちきっと叶うだろうという自分の考えを疑わなかった。
そして私は48歳になった。

 

海外に行く機会は一度だけあった。しかし26歳のときに行ったのは中国だった。
高校時代から興味があった歴史の舞台を見たかったのと、父方の祖父と子どもの頃の父が暮らしていたことのある東北地方に足を踏み入れたかったのだ。1ヶ月の旅でそれを果たした。

しかしこの旅行に出るために、私は勤めを辞めた。その後は不安定きわまりないフリーランスとして生活に追われ、カネも無ければ長い休みも取れない状態が続いた。やがて子どもが生まれ、妻が病を得て、海外旅行は夢のまた夢になった。
パスポートは押し入れの奥で、ひっそりと期限が切れた。

いつかはスペインに、ということを忘れたわけではなかった。それどころかサントリーウィスキーのTVCMを見てガウディを知り、「これはバルセロナにも行かなければ」と思った。しかしどうにもならなかった。

ピカソの作品は見た。日本で。
最初はゲルニカの立て看を描いた翌年(1982年)の秋に宮城県美術館に来た「ピカソ陶芸展」だった。美術に疎い私は、それまでピカソが絵画以外も手がけていたことさえ知らなかった。しかし私にとってこの展覧会は、宮城県美術館で開かれた特別展の中でも、特に気に入ったものになった。
前年に宮城県美術館が開館したおかげで、私にも少しずつ美術展を見る習慣ができつつあった。

こうして私はピカソが好きな、地方在住の平凡な美術ファンになった。
ピカソ展が来ると聞いて、東京まで足を伸ばしたこともあった。晩年の小さな版画ばかりを集めた展覧会では、辟易(へきえき)という言葉の意味を知った。それでも私はピカソが好きだったし、いつかはゲルニカを見にスペインへ、という気持ちは忘れなかった。

1992年、ゲルニカはプラド美術館から、同じマドリッドのソフィア王妃芸術センターへと移された。さらに時は流れ、21世紀になった。
立て看を描いてから、四半世紀が過ぎた。

ゲルニカのどこが「凄い」のか。あのとき感じた「凄み」の正体は何だったのか。
私にはそれを言葉にする能力はなかったが、いくつか本は読んでみた。美術評論はどれも難解で、しかもむやみに長く、私の読解力と感性を嘲笑(あざわら)って足蹴にした。
しかし宮下誠氏の『ゲルニカ~ピカソが描いた不安と予感』(光文社新書/2008年)は最後まで読めた。そして理解できた。
本にも力があると思うが、著者が自分と同世代だということもあるかもしれない。サルトルを引いて実存的不安にも言及しているが、これも学生時代に(翻訳だが)親しんだ思考パターンで苦にならなかった。

2008年。
東京で久しぶりに大規模なピカソ展が開催された。パリのピカソ美術館が改修に入るにあたって行われた、世界的な巡回展の一環だった。私は一人高速バスで東京に向かい、10月12日、国立新美術館とサントリー美術館を巡った。
私にとって、ピカソはやはり楽しかった。多くの作品は笑いをこらえながら見た。熱心に説明文のプレートを読んでばかりいる人たちが、不思議でならなかった。
展示を見終わって国立新美術館の中をぶらついている時、携帯が鳴った。旅行代理店のH.I.S.からだった。「大泉さん、すみません。バルセロナからマドリッドに行く飛行機の時刻が、また変更になりました」「いいですよ。お任せします」

そうだ。
私は中国旅行以来、22年ぶりに『地球の歩き方』を買い、22年ぶりにH.I.S.の店に入ったのだ。私が「本当は若いうちに行きたかったんだ」と言うと、H.I.S.の若い男性担当者は「そのお年で航空券と宿だけ取ってヨーロッパに行こうというんですから、気持ちがお若いですよ」と言った。
12月27日、私はパリ、バルセロナ、マドリッドを巡る2週間の旅に出た。

 

パリ。
オルセーでは「草上の昼食(マネ)―ピカソと巨匠たち」展が、ルーブルでは「ピカソ‐ドラクロワ」展が開催されていて、ざっと見ることができた。しかしいずれの美術館もが初めての身にとっては、代表的な所蔵品を駆け足で巡る方を優先せざるを得なかった。
せっかく開催中だったグラン・パレの「ピカソと巨匠たち」も見られなかったし、ピカソ美術館も行けなかった。

年が明けて2009年1月4日。
バルセロナのピカソ美術館を訪れた。10代の作品のコレクションで知られ、「初めての聖体拝領」「山岳風景」「科学と慈悲」などを見ることができた。

1月7日、マドリッドのソフィア王妃芸術センター。
午前9時45分。開館15分前に到着したが、一番乗りではなく二人目だった。
開館する。荷物のX線検査を受ける。チケット売場を通過する。この時点で前には誰もいない。
右のエレベーターで2階へ。動悸が高まる。ゲルニカは一番奥だ。早足で一目散にその部屋を目指す私を、係員たちがぎょっとした表情で見る。
出た、牛の頭だ。絵の左端が、部屋の出入り口から見えた。

(中略)

私は30分ちょっとの間、ゲルニカを見続けた。想像以上に大きかった。
ガラスも手すりもない。近づき過ぎると警告のブザーが鳴るが、私は2回鳴らした。
その間、見に来た人は10人足らず。ほぼ独占することができた。
やはりゲルニカは「凄い」絵だった。

隣室にはゲルニカのための多数のスケッチが、制作過程を追ったドラ・マールの有名な写真が展示されている。しかし私には、1937年パリ万博のスペインパビリオンの模型がひときわ興味深かった。作品は1階にあり、絵の枠の左下にはパブロ・ピカソ、右下にはゲルニカと入っていたのだ。

この美術館が気に入った私は、軽食をとったりブックショップを覗いたりして、結局5時間近くをそこで過ごした。午後2時半、最後にもう一度ゲルニカを見て、私はソフィア王妃芸術センターを後にした。
こうして立て看への模写に始まった、私の27年に及ぶゲルニカの旅は終った。自分が美術に関心を持った最初のきっかけに対面し、気持ちの整理をつけることができた気分だった。

ソフィア王妃芸術センターは子どもたちのためのワークショップに力を入れているらしい。10歳から15歳くらいの10人ほどのグループが、ミロの大きな絵の前で模写に励んでいた。皆、床に寝そべって。
私はこうした教育を受けることができなかった。あの子どもたちのようには美術と出会わなかったし、作品と親しむことができるようにはならなかった。
しかし悔いがあるわけではない。私は私に与えられたかたちで、美術に、ゲルニカに出会い、そしてオリジナルに対面することができた。これは僥倖(ぎょうこう)だと思っている。

ようやく句点を打った旅行者は、慌ただしく次の美術館へと向かった。