林竹二と宮城教育大学の1970年代

プロローグ

 東北地方の一〇〇万人都市、宮城県仙台市の市街地は、海岸線からかなり入った所にその中心を持っている。JR東北本線を地図で辿れば、仙台駅の辺りで大きく西寄りに迂回していることがはっきりと分かるだろう。これは、関ヶ原の戦いによって天下の趨勢が決したにもかかわらず、伊達政宗《だてまさむね》が平地ではなく山上に城を築き、そのふもとに城下町を開いたためだ。
 仙台駅の西口を出ると、目の前には幅五十メートルの大通りがまっすぐに延びている。しかし初めて仙台を訪れた人は、その先わずか二キロのところまで迫る小高い山の連なりに気づくと、立ち並ぶ高層ビルとのコントラストにあらためて目を奪われるはずだ。
 仙台城のあった標高一四〇メートルほどの山に限らず、そこから北西へと連なる山並一帯は、この地では「青葉山」と呼ばれている。そして教育学部だけの国立単科大学、宮城教育大学は、そのほぼ中心部にある。
 一九七九(昭和五四)年一月二十五日、土曜日の朝。宮城教育大学の上には、仙台特有の澄みきった冬の青空が広がっていた。

 二号館と呼ばれる建物の、学内でもっとも大きな階段教室の真ん中近くの席で、学生服を着た小太りの男子高校生Kが、ひどく落ち着かないようすで自分のカバンの中をまさぐっていた。これから入学試験が始まるというのに、あろうことか筆入れが見当たらないのだ。
 しまいには鞄の中身をすべて出して机の上に広げてみた。しかし無駄だった。
 Kは几帳面を通り越して、どちらかと言えば神経質な性格だった。おそらく昨夜、持ち物を確かめるために中身を何度もカバンに出し入れしたあげく、かんじんの筆入れを机の上に置き忘れてきたのだろう。Kは中身を再び鞄に詰め直すと、目をつぶって大きく息を吐いた。
 気を落ち着けようとして、Kは教室を見渡した。しかし居心地の悪さを覚えただけだった。
 そこにはKを含めて一六三人の受験生がいたが、その七割がたは女子が占めていた。仙台市内の男子校で三年間を過ごしたKにとっては、女子校の教室に紛れ込んでしまったような奇妙な感覚だった。
 今日は推薦入学のための本試験だった。Kは「推薦二次で行う表現力テストは準備不要、受験勉強は無意味」という大学の説明を真に受けていた。だからこのなかに、前年までの試験内容を調べて、今日のために踊りや太鼓の練習をしてきた受験生が含まれているとは夢にも思っていなかった。
 大学側による説明が始まり、小さな紙片が配られた。今日の表現力テストには踊りと朗読の「身体表現」と、絵画と作文の「造型表現」の二つがあるが、どちらか好きな方を選べというのだ。午前中が試験で、午後がグループ面接という予定だった。
 さっきからのKのようすを見かねたのだろう。隣の席の男子受験生が「きみ鉛筆忘れたんじゃろ。貸そうか」と言った。Kは感謝して、借りた鉛筆で「身体表現」に丸をつけると鉛筆を返した。
「ありがとう。おれ仙台。君はどっから?」
「イズミ」
 泉?
 泉市は仙台のすぐ北隣の町だったが(一九八八年に仙台市に合併・現在の仙台市泉区)、その受験生の言葉はあきらかに西日本のものだった。
「どこのイズミ?」
「鹿児島県」
 そうか鹿児島県の出水市か、とKは思った。
 このときKはまだ知らなかったが、宮城教育大学は宮城県の教員を計画的に供給するためにつくられた大学でありながら、日本中から学生があつまる「全国区の大学」だった。四年前まで学長を務めていた林竹二の時代にすすめられた大学改革が、マスコミで繰り返し大きく取り上げられたためだった。
 これから受ける独特の推薦入学試験も、その改革によるものだった。ユニークな表現力テストを行なっていたため、あたかも大学入試シーズンの風物詩のように、テレビの全国ニュースが、毎年そのようすを報じていた。
「きみはどっちを受けるんじゃ」
「身体表現」
「そうか、おれは造型表現じゃ」
 ちょっと間をおいて、隣の受験生は言った。
「きみ、もしかして造型表現を受けたいんじゃないか。鉛筆なら一日貸すぞ」
「いや、いいんだ。ありがとう」
 できたばかりの友人に、Kは嘘をついた。
 小さな頃から、運動と名のつくものはいっさい苦手だった。リズム感もなく、学校の科目に体育と音楽がなければなあと思いながら、この十二年間学校生活を送ってきたのだ。だからこの、自分の人生を左右するかもしれない場面で、鉛筆を忘れたからといって身体表現を選ぼうというのは明らかに無謀だった。
 しかしKは、一年ほど前から「正しいことと面白いことがあったら面白いことの方を選ぼう」と決めていた。「鉛筆を忘れたから大学入試で踊りを踊った」というのは、何年経っても楽しい思い出になりそうだった。そして詳しくは後に述べるが、Kには「どうせ最後には宮城教育大学は自分を合格させる」という確信があった。
 Kは「身体表現」を選んだ他の受験生たちといっしょに、大学の体育館へと移動した。

 試験会場には何人かの教官が待ち受けていたが、中森孜郎《なかもりしろう》と名乗る五十がらみの、体格のしっかりした、眠そうな二重まぶたをもつ教授が代表して話し始めた。
「今日の試験は、皆さんが、何ができるかを見るものではありません。皆さんの学ぶ力を見せていただきます」
 Kは思った。
「学ぶ力? そんなものは試験じゃ測れないぞ。だいたいそれじゃ、落ちた人間には学ぶ力がないっていうことかい」
 もちろん口には出さなかった。
 試験は準備運動、踊り、詩の朗読、の順番で行われると説明された。「身体表現」なのに詩の朗読があるというのがKには謎だった。しかしとにかく、他の受験生と二人ひと組になって指示通りに準備運動を始めた。
 それは彼が知っている、ラジオ体操やそのバリエーションのような準備運動とはまるで違っていた。一言でいえば、力を入れることよりも力を抜くことに重点をおいた体操だったのだ。
 パートナーと背中合わせになって肘を組み合い、前屈して相手を背中に乗せる運動では、上になった人間が力を抜いて体を伸ばしきることが求められた。あちこちからうめき声があがった。それは自分の体のあまりの固さにとまどった受験生たちの、半ば笑いを含んだものだった。やや騒然となりながらも、試験会場の張り詰めた空気がゆるんだ。
 Kもそれを楽しんでいた。そこに教官の一人がにこやかに近づいてきて、足の位置についてアドバイスをした。ところがKは、返事をするどころか「よけいなお世話だ」という目でにらみつけてしまった。面白くて、試験中だということをすっかり忘れていたのだ。「しまった」と思ったが、もう遅かった。
 受験生は皆、大きく番号の入ったゼッケンをつけさせられていた。その教官は憮然とした表情で、採点表になにごとかを書き込むと去っていってしまった。
 しかしKは思っていた。
「だいじょうぶだ。おれは受かる」
 踊りの課題が、いわゆるふつうのダンスではなく民謡の斎太郎節《さいたらぶし》だったこともKを驚かせた。ラジカセの音が体育館に響き渡り、手本として中森教授が力強く踊り始めた。

 松島の サーヨー 瑞厳寺ほどの
 寺もない トエー
 アレワエーエエー エイト
 ソーォリャー大漁だァエー

 Kは大学教授というものを間近で見たのは生まれて初めてだったが、それが額に汗を浮かべて懸命に斎太郎節を踊っている姿に、すっかり度胆を抜かれてしまった。
 大学に入るのに、なぜ民謡を踊らなければならないのか。
 などと考えている場合ではなかった。とにかく教えられたふりつけを頭の中で分解して、手足をその通りに動かしてみた。
 櫓《ろ》をこぐしぐさをしながら、少しずつ歩を進めていく…。
 しかし中森教授の手本とはまるで違って、ぎくしゃくしたものにしかなっていないことは自分でよく分かった。
 あせったKは、しばしば練習を中断して周囲の受験生を見回してみた。みんな苦労しているようだった。「これで本当に差がつくのか」と思ったが、それ以上のことを考えている余裕はなかった。今は自分の動きを踊りに見せかけることに精一杯だった。
 練習の結果、動きをいくら足し算しても、それは踊りにはならないのだということが納得された。しかしそんなことが分かっても、いまは何の役にも立たなかった。Kはロボットのように踊って試験を終えた。一人ずつではなく、数人ずつが列をつくって踊ったことだけが救いだった。
 Kはさすがにだんだん自信を失ってきた。
 最後の詩の朗読は、体を動かすことに比べれば、よっぽど気が楽だった。課題の詩も、田舎の学校に春がきた、というようなのどかなものだった。これなら元気よく明るくさえ読んでおけば、合格点には達するだろう。
 ただその詩の最後の一行が、「先生、つばめが来ました!」という生徒のセリフになっていることが、Kには気になった。これを試験教官に向かって、身ぶりをつけて叫べばアピールできるのではないかと、一瞬考えてしまったのだ。
 しかしすぐに、そんなことを考えた自分を恥じた。
「そんなことをして目立とうっていうのは反則だよな。うん、絶対にそうだ」
 ところがあと数人でKの順番になるというとき、一人の女子受験生がそれをやってしまった。それを見たKは、一気にやる気を失った。わざと抑揚をつけずに、淡々と自分の朗読を終えた。
「かまうもんか。どうせ最後には合格するんだ」
 もう、なかばヤケになっていた。

 昼休み、Kは鉛筆を貸してくれた受験生と再会した。Kたちは一緒に昼食をとることに決め、その受験生に付き添って来ているという姉と落ち合った。
「へえ、もう友だちができたんだ。あなたはどこから?」
「仙台です」
「センダイ? 近いじゃない!」
 Kたち二人は顔を見合わせ、それから声をそろえて言った。
「お姉さん、それは鹿児島県の川内《せんだい》でしょう?」
 昼食を終えると、Kたちは笑顔で別れた。午後にはグループ面接が行われ、入学試験は終った。

 一月三十一日、Kは推薦入試の結果の通知を受け取った。
「あなたは共通一次試験ならびに二次試験を免除されないことになりました」というもって回った言い方だったが、要するに不合格だった。
 ところがKはといえば、いっこうに平気だった。
「まだ一般入試がある」
 しかしKは、ここ一年以上大学入試のための勉強というものをしていなかった。共通一次試験でも、半分も点のとれない科目がごろごろあった。
 Kの自信の根拠は、ただ「自分は他の誰よりも小学校の教員になりたいと思っている。だから宮城教育大学は自分をとるはずだ」というものだった。それはまるで「ぼくは世界の誰よりも君を愛している。だから君もぼくを好きになるべきだ」というのと同じ、ただの一方的な勘違いに過ぎなかったのだが。
 二次試験は、三月四日に行われた。
 宮城教育大学の二次試験には、気前よく七つもメニューが用意されていた。小学校教員養成課程の志望者は、どれでも自分の好きなものを選んで受けてよいという。Kは、国語と英語を合わせたような、「人文系」という、小論文スタイルの試験を選んで受験した。こんどは鉛筆を忘れなかった。
 その第一問は、若者のマナーの悪さを指摘する新聞のコラムが題材だった。これを六百字以内で批判せよという。
「面白い問題出すなあ」
 Kはうれしくなった。
 この大学が、少しずつ好きになりつつあった。張り切って原稿を書き上げると、試験時間はまだ半分近くも残っていた。
 合格発表は三月二十日。
 宮城教育大学は、この勘違い高校生を本当に合格させてしまった。

教育の冒険

*以上は2013年に電子書籍で発行された『教育の冒険 林竹二と宮城教育大学の一九七〇年代』のプロローグ部分です。
https://www.amazon.co.jp/dp/B00C3ME856
 紙版の書籍は2003年に、同タイトルで(有)本の森より刊行されました。

三本木ギャザリング

*初出:2003年『Kappo 仙台闊歩』

170801soccer

私は頭を使うのが大好きだ。

だけど頭とは、どこからどこまでを指すのだろう。

この点について、私とお母さんの意見には相違がある。

お母さんの説では、額は顔の一部であって頭ではない。

「だからお願い、ヘディングはやめて」

と言う。

だけど私の見解によれば、首から上はぜんぶ頭だ。

どこに当たっても、ゴールに入りさえすれば、実に喜ばしい。

高くていいクロスが来る時、私にはピッとわかる。

幸福の予感に包まれ、ひねりを加えながら頭でシュートを放つ瞬間。

私はサッカーが好きだった。

 

もちろん私だって顔は大切だ。

敵のフリーキックを顔面でディフェンスしてしまい、盛大に鼻血が出た時は悲しかった。

サッカーをやめろと言われるのが怖くて、試合が終わっても、腫れがひくまで家には帰れなかった。

ファミレスの一番奥の席で、顔に濡れタオルをかけたまま、仰向けに寝転がっていた。

帰りが11時を過ぎて、やっぱり怒られた。

私はサッカーが好きだった。

 

傷(いた)むのは顔だけじゃあない。

当然、足が一番傷む。

あっちこっちに痣(あざ)ができ、爪は紫色だ。

スカートやサンダルが楽しめないのは、ちょっと悲しい。

ウチは女子高で、制服はスカートでソックスは短い。

夏に、どうしても水着を着なければならない時なんか最悪だ。

だけど、不思議だ。

ユニフォームのパンツ姿が気になったことは一度もない。

これは、長いソックスのせいだけじゃないと思うな。

私はサッカーが好きだった。

 

お答えいたします。

サッカーというのは球を蹴り合うスポーツで、脚を蹴り合うものではありません。

しかしスライディングタックルは、合法とされています。

ボールを蹴るとほめられ、相手の足を蹴るとファウルになり、無理な位置からそれをするとイエローカードになり、意図的と認められるとレッドカードで退場になります。

それぞれは、0コンマ何秒かの差で起こるに過ぎない、という意見もございます。

また、ボールをもらったり奪ったりに適したポジションとか、コーナーキックのボールをシュートしたり阻止したりに適したポジションというのはおおむね決まっております。

敵味方に別れていても、「どうしてもこの場所にいたい」という気持ちは一致してしまいます。

以上、なぜあんなに激しく、しょっちゅう体当たりをし合わなければならないのか、というご質問にお答えしました。

お母さんは、分かりましたか?

私はサッカーが好きだった。

 

好きな人は、いた。

中学の時。

だけどあまりに忙しすぎた。

平日は男子サッカー部に混じって練習。

肩書きはマネージャーだったけど、私は今でもチームで一番得点のセンスがあったと思っている。

土日はバスを乗り継いで、遠くにある女子のクラブに参加。

私みたいに小学校までスポ少でやっていて、サッカーを諦められなかった中学生と、成人世代とが一緒に練習し、大会を戦った。

よく帰りのバスの中で寝てしまい、その度に乗り過ごした分を歩いて帰った。

高校生になれば女子サッカー部がある。

女子サッカー部のある高校に絶対に入る。

そう思って自分を励ました。

中学時代を思い出すと、なんか、三年間ずっと歯を食いしばっていた気がする。

二年の終り頃から、サッカー部の男子にどんどん身長で追い越されて行って、ヘディングで競り負けるようになった時も、悔しくて何度も泣いた。

好きな人は、いた。

中学の時。

だけど、

私はサッカーが好きだった。

 

ウチの高校はめっぽう強い。

日本で何番目かに強いと思う。

しかし困ったことに、宮城には他にも「日本で何番目かに強い」高校がいくつかある。

全国大会に行くまでが大変なのだ。

私たちは練習した。

戦った。

勝った。

負けた。

そして、また練習した。

それを繰り返すうちに、私は大変なことに気がついた。

それは、物事には始めがあれば、必ず終りがあるということだった。

私たちは三年生になり、気がつけば次の大会で引退しなければならなかった。

私はサッカーを続けたかった。

もちろん卒業後も、クラブチームに戻って続けることはできる。

でも本当は、私はまだ、もっともっと高いところを、日本で一番高いところや、世界で一番高いところを目指してみたい。

でも駄目だろうと思う。

高校三年間、ウチのチームは全国大会にはほとんど出場できなかった。

私の名は宮城では知られていても、他県のLリーグのチームから話があることは考えられない。

宮城にLのチームがあったらなあ。

そうしたら、私にもチャンスがあったかもしれない。

だけど、ない。

今度の最後の大会でも、私たちは宮城県で一番になることはできないだろう。

いや、言い訳はやめよう。

今はもう、引退を一日でも先に伸ばすために必死で戦うだけだ。

最後の最後の最後の瞬間まで。

私はサッカーが好きだった。

 

後半45分です。ロスタイム。私は今日得点しました。だけど相手チームの得点の方が1点だけ多い。お願いです。せめて延長戦まで私にプレーをさせてください。かなうなら、勝って、さらに全国大会でも。私はまだ大丈夫です。全然疲れてなんかいません。一度足がつりそうになったけど、もう治りました。私は永遠に走り続けられるんです。本当です。だから会場の時計を全部止めてください。そのクロス。最後のチャンスだ。私は無理なポジションから、ヘディングシュートを、放つ。バーにはじかれたボールが、ラインの外へ。私の背中で、試合終了を告げる長いホイッスルが鳴った。私は振り向いて、審判を見た。その笛を奪い取ろうとして手を伸ばした。だけど審判は、巧みに身をかわし、私を振り切って行ってしまう。私はグラウンドに倒れ込んだ。グラウンドに突っ伏したまま、泣いた。大きな声で。涙は止まらなかった。人間ってこんなに涙が出るものなのかって思うくらい泣いた。私の涙で、グラウンド中が水浸しになった。もっともっと泣いて、どんどん溢れ出して、やがて世界中が水浸しになった。今度はグラウンドだけ水が引いて、まるでノアの方舟のように、水没した地球の上にぽっかりと浮いた。再びホイッスルが鳴って、私たちはゲームを始めた。永遠のゲームを。

それから私は、チームメートたちに抱きかかえられて挨拶へと向かった。

頂点を目指した、最後のゲーム。

私はサッカーが好きだった。

 

私は思い出すだろう。

芝から立ちのぼる春の匂いの柔らかさを。

土のグラウンドに落ちる夏の影の黒さを。

顔の火照りを鎮めてくれた秋の風の涼しさを。

雪道を走るときに耳に刻んだザクザクという冬のリズムを。

そして、

味方のキーパーが指示を出す声。

いいゲームができた時の監督の笑顔。

試合後に握手を求めてきた相手選手の眸(ひとみ)に宿る光。

大きな声で応援してくれたお母さんと、困ったような顔で見つめていたお父さん。

全国大会の会場になった何万人も入る大きな競技場。

歓声。

涙。

私はサッカーが好きだった。

 

ある日私は、校内放送で応接室に呼び出された。

監督の隣に、知らない男の人が座っていた。監督がその人のことを紹介したけど、緊張していてよく聞き取れなかった。

その人は言った。

「宮城に日本一の女子サッカーチームをつくるんだ。君に、来てほしい」

 

 

宮城は女子サッカーの強豪県だ。特に高校年代は強い。

昨年の全日本高校女子選手権の決勝は、宮城県勢どうしで争った。常盤木学園が日本一、聖和学園が準優勝である。ちなみに、その前年は聖和学園が優勝した。

男子サッカーに比べると注目される機会は少ないが、日本は女子サッカーでも、世界の中に地位を占めつつある。今年は女子ワールドカップの年で、ブルーのユニフォームを着た日本代表の活躍が期待されている(開催国は米国)。フル代表以外にも、U19からU12まで各年代の代表チーム結成や強化合宿が行われているのも男子同様だ。

女子サッカーの質の向上が、国内の競技人口の増加と人気の上昇に支えられていることは明らかだ。トップリーグであるLリーグは一九八九年に発足した。国体では一九九七年から正式種目になり、男子の天皇杯にあたる全日本女子サッカー選手権も毎年開催されている。

もちろん、女子選手が競技を続け、トップを目指して力を伸ばしていくための環境は今も厳しい。宮城県の場合、小学生の時にはスポーツ少年団で男子に混ざってプレーし、地区ごとに女子選抜チームを組むこともできる。しかし中学生になると近くに女子のクラブがない限り、学校の男子サッカー部に入部することになる。近年は選手として公式戦に出場することも可能だが、男子との体格の差が顕著になる年代でもあり、上を目指す選手は、週末ごとに遠方の女子クラブチームに合流して試合経験を積むことになる。だからこの年代では、女子クラブチームの数が多い東京や大阪といった大都市が圧倒的な強さを誇っている。

しかし高校年代では、宮城の強さは全国的に有名だ。先の二校の他にも石巻女子商業など実績と伝統を持つ高校が多くあって高いレベルで競い合っており、年代別の日本代表にも選手を輩出している。

こうした盛り上がりの中、「二〇〇一年のみやぎ国体で優勝できるチームを」という県を挙げての要請に応えて、三本木町のYKK東北工場に女子サッカー部が誕生した。一九九七年のことである。愛称のフラッパーズは「おてんば娘」という意味だ。

宮城県出身の選手を中心に、実力を持ったメンバーが三本木に集結した。監督には、アトランタ五輪に出場した全日本女子チームでゴールキーパーコーチを務めた齋藤誠氏が就任。工場の構内には天然芝のグラウンドやクラブハウスも完成し、練習環境も整えられた。もちろん全員がYKK東北の社員として働く。

五年目の開花を目指したフラッパーズだったが、チームの士気は最初から高かった。一年目から東北では無敵の強さを発揮。早くも二年目には、宮城県代表チームとして参加した神奈川国体で、何と優勝するという快挙を成し遂げてしまう。四年目の富山国体では、またも優勝。この年から参戦したLリーグでも、いきなり4位という好成績を挙げた。

二〇〇一年十月、宮城国体。

地元開催で絶対に優勝をという強烈なプレッシャーの中、フラッパーズは勝ち続けた。連日の試合というすさまじいスケジュールに耐え、ついに決勝に駒を進めた。

相手は三重県で、Lリーグでも対戦しているチームのメンバーだった。試合は激闘になった。前半は0対0。後半17分に宮城が先制するが、3分後に追いつかれて延長戦に突入する。それでも決着はつかず、規程により両チーム優勝。

こうしてフラッパーズは宮城県の皇后杯獲得に貢献し、創部の目的の一つを果たした。

そして——

昨年の高知国体で準優勝。全日本女子サッカー選手権では、昨年までベスト4進出、3位と躍進。今やフラッパーズは国内でも指折りの強豪チームに成長した。日本代表チームにも、選手を送り出し続けている。

今年もLリーグが開幕した。昨年は振るわなかっただけに、フラッパーズは雪辱に燃えている。今は7チームが戦う東日本リーグの最中だ(ホーム&アウエーで12試合)。予選にあたるこのリーグで三位以内に入り、西日本リーグの三位までを加えて行われる上位決勝リーグに進出することが当面の目標である。来年からは東西を統合した上で二部制に移行することが決定しており、何としても1部に残れる成績を挙げなければならない。

フラッパーズのメンバーは18人と、まさに少数精鋭。シーズン中も、彼女たちはフルタイムで働いた上でサッカーをしている。月曜から金曜までは午後5時まで仕事をし、午後6時から9時までが練習だ。土曜日は練習、日曜日は試合。たとえアウエーのゲームで長距離の移動があっても、月曜日の朝は、また工場での業務に就く。

宮城の地から、国体の熱気はとうに去った。

しかし、彼女たちの戦いは今も続いている。

 

【取材協力】

宮城県サッカー協会

YKK東北女子サッカー部フラッパーズ

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

以上は2003年、仙台のタウン誌『Kappo 仙台闊歩』に書いた原稿である。

文中に「Lリーグ」とあるのは、現在の「なでしこリーグ(日本女子サッカーリーグ1部)」である。そしてフラッパーズも、今はもう存在しない。

2004年、チームが東京電力へと譲られることが決まった。チーム名は「東京電力マリーゼ」に、そして本拠地は、福島県の太平洋岸にある「J-ヴィレッジ」に変わった(双葉郡楢葉町)。

2005年から選手たちは、今度は東京電力の社員として働きながら、福島のサポーターの熱心な声援を受けて戦った。

チームは一時不振に陥り、2部落ちも経験した。しかしその後復帰し、上位争いを演じるようになる。

2011年3月11日、東日本大震災で東京電力の福島第1原発が壊滅。間もなくチームは活動の自粛を発表した。

その7月。女子サッカーの日本代表チームが、ワールドカップにおいて快進撃を続けた。日本時間の7月18日の早朝、日本代表は決勝で米国をPK戦で降し、世界一のタイトルを獲得した。もちろん史上初である。

日本中がこのニュースに沸く一方で、東京電力はリストラの一環として、マリーゼをはじめとするスポーツ活動をすべて廃止すると発表。選手の多くは行き先が決まらないまま、不安な日々を過ごした。

同年10月。日本女子サッカーリーグは、マリーゼの移管先にJ1仙台を承認。今彼女たちは、ベガルタ仙台レディースとして戦っている。(2017年8月1日記)

*写真は「ぱくたそ」より。