仙台スタジアムのロックンローラー

初出『Country Road 2003』

ベガルタ仙台・市民講演会(2004.1.24発行)

「プロのサッカー選手だった」
 っていう親父の話を、俺は小学校4年の夏休み明けまで信じていた。
 ホラだってことが分かったのは、同じクラスのマサが「休み中に調べたけど、お前の父ちゃんはプロのサッカー選手なんかじゃなかったぞ」って言ったのがきっかけだった。
「人の親父のことを夏休みの自由研究にするんじゃねえ」
 俺はそう言ってから殴ったと思うんだが、教室にいた他の奴らによれば、俺は何も言わずにいきなり殴ったらしい。まあどっちが正しいかなんてことはどうでもいい。とにかく俺はマサの顔を正面からぶん殴り、マサはぶっ飛んで、教室のどこかの角にぶつかってノビちまった。頭から血を流して。
 もちろん大騒ぎだ。
 学校に呼び出された親父に訳を話すと、親父の顔がみるみる青くなった。俺は目の前で人間の顔の色があんなに変わるのを初めて見たぞ。びっくりしたなー。親父はしばらく下を向いていたが、「それは、マサくんが、正しい…」と言ったっきり頭を抱えちまった。俺は呆然とした。おいおい、何てこったい。
 俺は学校から親父とお袋と、ついでに校長と一緒に、マサが入院した病院へ向かった。担任はマサに付き添って先に行っていた。
 幸いマサの怪我は大したことはなかった。いや、3針縫ったんだから大したことはあったんだが、出血がハデだったわりには傷は小さくて、レントゲンや脳波検査の結果も問題なかっていうことだ。さすがに俺もほっとしたが、この先のこと、つまり居並ぶ大人たちからさんざん絞られて、あの運動オンチのマサに謝ったり挙げ句の果てに握手させられたり仲直りの約束をさせられたりするのかと思うと激しくゲンナリした。
 だけどここからがドラマだったのよ。
 ベッドの上の、頭に包帯をぐるぐるに巻いたマサがうるうるになって、そして突然大声で泣き出したもんだから俺たちはびっくりした。泣きじゃくりながら、マサはでっかい声で繰り返した。「違うんだ、僕が悪いんだ」って。
 なだめて話を聞いてみると、マサは運動オンチのくせにサッカーオタクだった。俺が他の友達に「父ちゃんはプロのサッカー選手だった」って自慢してるのを聞いて、ワクワクして調べてみたらしい。ヒマな野郎だ。ところがいくら遡(さかのぼ)って調べてみても、俺と同じ名字のJリーガーなんていやしねえ。インターネットやら図書館やらで海外のクラブまで手を広げてみたが、結局見つからなかったって訳だ。
 奴は怒った。「同級生の父ちゃんがプロのサッカー選手だったと聞いて大喜びで調べてみたのに何だ!」っていうわけだ。俺に文句を言って、そして思いきり殴られた。
 だけど僕が勝手にやったことで、殴られたって仕方ない言い方をしたんだからって、マサの奴はそう言ってまた声を上げて泣いた。
 病室はシーンとして、みんなうなだれちまった。
 一番困っていたのは、もちろん俺の親父だった。しまいには大の大人のくせに、涙をボロボロ流してマサに謝ったんだ。こうして俺の親父はプロのサッカー選手じゃなくて、ただのバカだったことが明らかになった。そしてもちろんバカは遺伝する。どうしたわけか、つられて俺もその場でオイオイ泣いちまったんだ。全く恥ずかしい話さ。まあ、あの時はガキだったんだからしょうがないな。な、そうだろ。
 それにしても今になって思えば、小4まで親父の嘘を信じてたっていうのは、我ながらかなり思い込みの激しいタイプだな。サンタクロースの正体は保育所時代に見破っていたのによ。まあ親父も俺が小さい頃に何かのハズミで「サッカー選手だった」って言っちまって、それっきり引っ込みがつかなくなったんだろうけど、やっぱり信じ続けた俺の方もおかしい。
 ところでおかしなことに、あの日以来俺の親父とマサの親父は大の親友になっちまった。マサの親父もクレージーなベガルタのファンだったからだ。病院の廊下で話が盛り上がり、大きな声を出して看護師に注意された。
 マサのお袋さんは怒ったな。すげえ怒った。それは目の前で見てたから俺も覚えてる。マサの親父さんは少ししゅんとなったけど、またすぐに俺の親父と盛り上がってその晩飲みに行ったから、お袋さんから一週間口をきいてもらえなかったそうだ。
 そしてもちろん俺とマサも、それ以来親友になった。いや、悪友か? それとも腐れ縁か?
 あれからしばらくの間、俺はマサにサッカーを教えてやった。最初は驚きの連続だったな。だってマサは、思いきり蹴ってもボールが俺の半分も飛ばないんだぜ。まっすぐ前にも飛ばない。ヒョロヒョロのヨタヨタだ。
 だいたいフォームが変なんだよ。何であんな変な格好でボール蹴るんだよ。ボールに申し訳ないじゃないか。
 俺がキレてでかい声を出すと、何てったって前科一犯だからな、職員室の窓からハラハラして見てた先生がビューンって飛んで来る。
 俺が精一杯ニコニコして「何でもありません大丈夫です」って言ってるのに、マサの方はもう半泣きだからさ、先生は納得しない。目が完全に吊り上がっている。先生、あれはマサがボールをちゃんと蹴れなくて悔し泣きしてたんだってば。マサも自分でそう言ってるのに、ちっとも信用しないんだからなー。
 だけど今思い出しても、あの校庭はよかった。
 ほら、小学校の校庭って、今はほとんど芝生じゃん。昔はただの土だったんだよな。俺が子供の頃少しずつ芝生になってったんだけど、俺のいた小学校は早い方だったんだ。
 芝生って、寝転がっても裸足で走っても気持ちいいだろ。それがうれしくて、俺は小さい時から毎日のように小学校に行って、親父とボールを蹴っていた。そして小学校に入ると、毎朝門の前で学校が開くのを待って、ずーっとフットサルをやってた。
 校庭にはコートが6面とれた。クラスや地域の仲間で12のチームをつくり、毎日対戦してはその結果を学校の掲示板に書き出してたよ。「1部リーグ」と「2部リーグ」があって、その間を上がったり下がったりするんだ。女子だけのチームもあって、結構強かったな。あれは面白かった。
 マサも俺たちのチームに入れて、ときどきは出番をつくってやった。だけどあいつはやっぱり審判をやったり記録をつけてる方が楽しそうだったな。それからマネージメントっていうか、連絡とか調整とかもあいつに任せておくと安心だった。
 マサの頭には今でもあの時の傷跡が残ってて、その周りはすこーしハゲになっている。女と飲むたびに頭のハゲを見せて、子供の時に俺にやられたんだって自慢してるそうだ。実はあいつもバカだった。
 マサは大学に受かった。頭はいいからな。そして二十歳になるのを待って自分の会社をつくった。今はフットサルコートを中心にした小さいスポーツ施設を運営している。試合が終わった後、クラブハウスで自分たちのプレーのビデオを見ながらビールを飲んだりできるところが結構ウケているらしい。今じゃ学生ながらいっぱしの企業家っていうわけさ。

 俺の誕生日は、2001年の11月18日だ。
 その日親父は、京都の西京極総合運動公園にいた。伝説の、ベガルタが最終節で一度目のJ1昇格を決めた試合だ。
 お袋も熱狂的なサポーターで、ぎりぎりまで自分も京都に行く気でいたらしい。俺を生んですぐに親父の携帯に電話をし、その後俺に初乳をくれながら病院のテレビでベガルタを応援したというとんでもない女だ。試合終了の瞬間、あぶなく俺を病室の天井まで胴上げするところだったと、これは自分で言っていたから間違いない。
 親父とお袋は、当時大好きだったベガルタの選手の名前を俺につけた。だから昔っからのサポーターの中には、俺のことを「2代目」っていうアダ名で呼ぶ奴もいる。俺は別に気にしちゃあいないが。
 あとは俺のことを「ロック」って呼ぶサポーターも多いな。これは俺がインタビューで好きな音楽を聞かれると、必ず「ロック」って答えるからだ。
 俺はしゃべるのが苦手だから、マスコミの人たちは本当に困っちまうみたいだ。向うも商売だから「好きなアーティストは?」とか「お気に入りの曲は?」とか聞いてくるんだけど、俺はそれ以上答えない。「いや、その…」とか言ってにやにやしてると、そのうちほとんどの人は諦めてくれる。粘る人には「実はアーティストとか曲とか、名前覚えられないんっスよ」と笑って言うと許してくれる。
 本当を言えば俺だって、惚れてるミュージシャンや宝石みたいに思ってる曲はあるさ。だけど俺は、本当に大切なものはそう簡単に人に教えちゃいけないんじゃないかと思ってる。俺にとってはロックがそうなんだ。俺って、ちょっと古いかな。
 俺には、ガキの頃からなりたいものが二つあった。どっちも同じくらいに、絶対に強烈になりたかったものが。
 一つめはプロのサッカー選手。これはもちろんベガルタの選手じゃなくちゃいけない。何てったって両親に「他のチームは敵だ! 鬼だ! 悪魔だ!」って教えられて育ったんだ。他のチームのユニフォームを着ることなんてこれっぽっちも考えられなかった。
 俺は小学校入学前からベガルタのスクールに入って、ジュニアユース、ユースと進んでトップに上がった。今じゃベンチ入りの半分は俺みたいなユース出身だけど、昔はそうじゃなかったらしい。ベガルタの場合Jリーグが始まってからチームができたから、よそから実績のある選手が集まって来て、チームを育ててくれた時期が長かったそうだ。ベガルタが初めてユース出身の選手をよそにレンタルした時には、親父は感慨深そうだったな。
 俺は、小さい頃からとにかくよくベガルタの試合を見てた。時々はアウェイにも連れていってもらってたし、サテライトやユースもずいぶん見たな。
 自分がトップでプレーするようになった今、それはすごく生きてると思う。だから親父とお袋には感謝している。
 プレーする時、俺の体はフィールドにいるのに、アタマの中では自然にスタンドから見下ろす図が描けている。自分が次の瞬間どこにいて何をやらなくちゃいけないか、俺にはいつだって明々白々なんだ。
 前にテレビで将棋指しの人が、瞬間に何手も先まで何通りも読むって言ってたけど、あれ、よく分かるな。頭の中にいろんな動きのパターンがゴチャゴチャって入ってるんだけど、その瞬間、必要なやつだけがピーッて整列する感じ。俺はそのイメージの列の中を一直線に駆け抜けて、やるべきことをやるだけなんだ。
 ところが、俺自身の体がついて行けずに、やるべきことができない時がある。俺は自分に怒る。今この瞬間にやるべきことが、まるでイメージできないチームメートにも怒る。だから結構怒ってるな、試合中。
 だけど試合前、フィールドでの練習が始まる時には、俺はうれしくってゾクゾクする。サポーターの歓声が、ガンッて感じで俺にぶつかってくる。コールに応えて左手を上げる。そして、最初にボールを大きく蹴り上げた時に見る空。
 仙台スタジアムは俺にとって特別な場所だ。ピッチとスタンドがものすごく近いとか、声援が客席の屋根に反響してすごい迫力で聞こえるとか。そういうのも確かにある。だけど、何かそれだけじゃなくて、もともとあそこは俺たちにとって聖なる場所だっていう感じがするんだ。
 うまく説明できないけど——
 二万人で一つの神輿(みこし)を担ぐ祭りの、ど真ん中にいるような感じ。
 笛が鳴った瞬間、俺に何かが乗り移る。
 俺たち十一人は一匹の凶暴なケダモノと化して、一つの球を敵と奪い合う。あの快感。
 そして俺は、あんぐりと開いた敵の口にその球を放り込むんだ。
 俺が、そしてスタジアム全体が、シャウト! シャウト! シャウト!
 こうして俺は、ベガルタのプレイヤーになってガキの頃からの夢を叶えた。本当に幸せだ。
 だけどもう一つ、俺には絶対になりたいものがあった。
 それはベガルタのサポーターだ。
 そりゃまあ赤ん坊のときから仙台スタジアムには行ってたさ。だけどオトナだよ、あのカッコいいオトナのサポーターになりたかったんだ。
 この夢も、俺は絶対に叶える。
 引退した後もサッカーの世界で生きて行くことは、俺はとっくに諦めている。
 なんせしゃべるのがさっぱりだ。ダチや選手同士でしゃべる分にはまったく問題ないんだが、あらたまって何か言わなくちゃならないとなると頭の中が真っ白ケになっちまう。
 さっき、インタビューの話をしたけど、好きな音楽以外のことを聞かれても、俺の答えのほとんどは「はい」か「いえ」。もしくは単語1個だ。いや、たまに2個のことがあるな。「次、決めます」とかな。これじゃ解説とかそういうのはダメだろう? ダイジョブ? あ、そ、やっぱりダメ。
 指導者もムリだな。小学生相手のサッカースクールに引っ張り出されたことがあるけど、「頑張れ」「思い切って行け」「死ぬ気で行け」しか言えなかったもんな。
 何歳までプレーできるか分からないけど、俺の第二の人生は普通のサラリーマンがいい。マサは「その頃には俺の会社が大きくなってるから雇ってやるよ」って言っているが、あいつから給料もらうのは、ちょっと、なー。
 とにかく俺が次に就くのは、ベガルタの試合がある日に絶対に休める仕事だ。もちろんアウェイもだ。そんな都合のいい仕事があるのかよく分からないけど、親父をはじめ試合の時には必ずスタジアムにいるサポーターを見てると、どうにかなるんじゃないかって思える。
 少し年をとった俺は、スタンドで一番でかい声を出して歌う。そして気合いの足りねえ選手がいたら、思いっきりヤジる。
 もちろんその頃には結婚していて、女房子供も一緒だ。そうして俺は、子供に言ってやるつもりさ。「俺はプロのサッカー選手だったんだぞ」ってな。
 ついでに「実はじいちゃんもそうだったんだぞ」って言うことにしよう。子供が「本当?」て聞いたら、親父はたぶん「本当だ」って答えるな。バカだから。ああ、その日が来るのが今から楽しみだ。
 そう言えば、こないだサッカー協会の偉い人と二人っきりになった時、ヘンなこと言われたな。「学生時代、君のお父さんとは合宿で一緒になったことがある。未来をショクボウされていたが…」って。
 俺は黙っていた。なぜなら、もちろん「ショクボウ」という言葉の意味が分からなかったからだ。「食堂」の聞き間違いじゃねえよな、意味通じないし、とか思っていた。
 仕方ないから俺は次の言葉を待ってたけど、偉い人も俺の返事を待っていた。あれは気まずかった。
 あの時は部屋に他の人が入って来て「助かった」と思ったけど、あれはいったい何だったんだろうな。親父もプロじゃないけどサッカーやってたってことなのかな。
 部屋に帰ったらショクボウの意味を調べようと思ったんだけど、これがつい忘れちゃうんだよな。って言うか、本当は高校出る時捨てちゃったから、俺の部屋に辞書がないのが悪いんだ。
 本屋に行くヒマないし、だいたい言葉一個調べるのに辞書買うのも馬鹿みたいだ。コンビニに売ってりゃ買うんだけどなー。
 と言うわけで、この件はいまだに謎のままだ。何だよ、そんなに呆れるなよ。いや、調べる、調べるって、そのうち。そして親父にちゃんと聞いてみるからさ。そうだ、マサに電話で聞いてみよう。

 今は毎年優勝争いに絡んでいるベガルタだけど、2部から始めてJ1に上がった後も、一度はJ2に落ちたことがあるそうだ。俺は小さかったから、よく覚えていない。
 だけどベガルタには、それで応援をやめちまうような腰抜けのサポーターはいなかった。
 むしろみんな腰を入れ直した。
 それでも「あの時は、いろんなことがグラグラと揺らいで本当に苦しかった」と、親父とお袋がしゃべっているのを聞いたことがある。
 そう言えば俺が小さい時、親父とお袋がよく「戦術ダマシイ!」と叫んで喝を入れ合っていたけど、考えてみれば、あれはちょうどベガルタがJ2にいた時だったようだ。「戦術魂」というのがどういう意味なのか、俺にはよく分からない。だけどサポーターが試合に向けて根性を据える時の掛け声らしい。親父とお袋に意味を聞いてみたこともあったけど、二人とも「大きくなったら教えてやる」と言い続けてそれっきり、いまだに教えてくれない。あるいはただ忘れているだけかもしれないが。
 まあいいさ。さっきも言ったけど、誰にだって大切なものはあって、それは簡単に人に教えていいもんじゃないもんな。
 そんなJ2の時代も耐え、長い時間をかけて、ベガルタは少しずつ強いチームになって行った。
 そして今年、俺たちはJ1を制覇した。
 仙台スタジアムで優勝を決めた瞬間、俺は大声を上げて泣いちまった。小学校4年生のあの時以来だ。
 格別だな、リーグ王者になるっていうのは。
 俺は今年絶好調で得点王まで獲(と)っちまったけど、まったくサポーターのおかげだ。あの応援の!
 来年は、ちょっくら海外で出稼ぎもある。
 俺はゴールを決めて、きっとユニフォームを脱ぐ。みんな驚くだろうな。その下のシャツには、「ベガサポサイコー」って書いてあるんだから。
 さあ、いっちょうあの純金製のワールドカップトロフィーを日本に持って帰るとするか!

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ベガルタ仙台・市民講演会
「カントリーロード2003」販売開始のお知らせ
http://www.vegalta-sa.org/04/cr2003.htm

ベガルタ仙台
1994年 ブランメル仙台
1999年 Jリーグ2部参入
2002年〜 1部
2004年〜 2部
2010年〜 1部
2022年〜 2部