12年目の三陸に、海を見に行く

三陸に、2年ぶりに海を見に行く。

2020年・2021年はこちら

日程の都合で、たまたま東日本大震災からちょうど12年目に再訪することになった。宿は岩手県宮古市に2泊。

3月10日(金)。三陸自動車道を北上して、道の駅大谷海岸へ。震災前はたびたび海水浴に来た。震災後も何度か来ている。

車で10分ほどの「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」へ、初めて行った。被災した高校の建物を保存している。最初に巨大スクリーンで当時の津波の映像を13分間見てから、校舎を巡る。

再び三陸道に乗って宮古へ。そしてまず浄土ヶ浜へ。レストハウスの前の海水浴場の岩が午後の陽を浴びて、変わることなく美しい。今回の目当ての一つが、夜もう一度ここに来て星を見ることだ。

今回は宮古港に面したホテルアートシティに連泊する。チェックインを終えたら、堤防のゲートを通って港へ出る。徒歩3分。魚市場、道の駅、遊覧船の発着場がある。

非常時にゲートが閉まっても、階段を上って堤防を越えることができる。下の写真は堤防の上からの眺め。

この日の日没は午後5時半頃。再び浄土ヶ浜へ向かう。車を第3駐車場に駐め、懐中電灯を頼りに浜まで歩いて降りる。灯りは営業時間が終わったレストハウスの周囲だけだ。星がきれいで、岩の上には北斗七星が「?型」に見えた。コンパクトデジカメで撮った下の写真ではほとんど分からないが…。

明けて3月11日(土)。朝は夜明けの浄土ヶ浜を歩き、午前は三陸鉄道に乗り、午後は再び(計4回目)浄土ヶ浜の周辺を歩く。

朝5時半にホテルを出発。第1駐車場から歩いて浜へ降りる。今回は乗らなかった、前年に就航した新しい遊覧船。もう明るいが、まだ陽は上っていない。船の上に見えているのは、西に沈もうとしている月だ。

この日の日昇時刻は午前6時の少し前。太陽は水平線からではなく、重茂(おもえ)半島から上る。東日本大震災から12年目の朝日が、水面のさざ波に映る。

6時。サイレンが鳴り響き、宮古市の防災訓練が始まった。「これは訓練です」「大地震が発生しました」「津波警報が発令されました」と防災無線から相次いで声が響き渡り、消防車が出動する。ホテルに戻ると、堤防のゲートは閉じられていた。

朝食後すぐに出発し、宮古駅の東駐車場に車を駐める(24時間まで500円)。三陸鉄道の久慈行き7:52発に乗る。宮古〜久慈間の1日フリー乗車券2,600円を使って往復。2年前には釜石から2度に分けて、宮古までと盛(大船渡)までを往復した。今回で三鉄の全線に乗車することになる。私は断じて乗り鉄ではないが、列車に乗っているのは大好きだ(たとえトンネルが多くても)。

9:28久慈着。昼食には三鉄久慈駅の名物うに弁当を食べてみたかったが、前日電話すると「もう予約分はいっぱいです。明日直接来てもらっても売り切れているかもしれません」とのこと。列車を降りてまっすぐ店に向かったが…「売り切れ」の紙が貼り出してあった。

1時間ほどすると、宮古に戻る列車が出る。残念だが海辺まで行く時間はない。久慈川沿いを歩いてアンバーホール(市民文化ホール)を目指す。

手前の円錐形に入り口があり、エレベーターで最上部の展望台まで登れる。そこから海を見た。また歩いて駅まで戻り、10:39発に乗る。朝早かった往路と違って、さすがに乗客が多い。12:14宮古着。駅に隣接した「さんてつ屋」で買い物をする。

いちどホテルに戻り、地震が起きた時刻の少し前に出発する。また浄土ヶ浜の第3駐車場に車を駐める。当初は、この時間に出る遊覧船に乗ろうかとも思った。しかし一人で歩き、一人で黙祷しようと考え直した。剛台展望台に登って、降りる。浄土ヶ浜大橋を渡る。橋の下は川ではなく、蛸の浜の集落だ。その突堤の向こうを、遊覧船が行くのが見えた。

橋の向こうに遊歩道の入口があり、そこから降りていく。ここは「みちのく潮風トレイル」のコースになっている。左へ行くと山道に入り、グリーンピア三陸みやこに至る。しかし今回は右へ進み、蛸の浜集落の墓地を抜ける。午後2時46分。宮古市の防災無線が黙祷を呼びかけ、1分間サイレンが鳴った。海に向かって目を閉じる。

車でも、ホテルの前から続く道を北上し、大橋の下を通って突堤のそばまで行くことができる(Googleマップのストリートビューでも見られる)。しかし歩いて行けば、岩の中のトンネルを抜けて浄土ヶ浜側に出る楽しみがある。実は蛸の浜もトンネルも、私は初めてだった。

上の写真は浄土ヶ浜側。レストハウス前に出るので、第3駐車場まで上って戻る。1時間ほどで回ることができた。

3月12日(日)。夜明けを待って港を歩く。

魚市場や道の駅の先に続く公園を歩き、戻って堤防の上への階段を上る。避難路は国道をまたいで渡り、漁協のビルへと続いていた。

この日は朝9時から、この港を会場に毛ガニまつりが開催される日だった。しかし私は、人が多い場所はあまり得意ではない。車も混むだろう。朝食を食べて7時半にチェックアウトし、そのまま宮古を離れた。三陸道から釜石道に入り、花巻で「宮沢賢治イーハトーブ館」に寄り、予約していた図書室で1時間ほどを過ごし、東北道を使って帰宅した。

耳から覚えるタッチタイピング

パソコンの入門授業を担当している大学生向けに、タッチタイピングの練習ページを作った。

http://www.md-sendai.com/tt/

「速く打てるようになる」以前に、「キーの位置を指で覚える」ことができない人向けである(ローマ字入力)。

タッチタイピングの練習

「タッチタイピングとは何か」から始まる解説動画が4本(各10分程度)と、「指の動きを指示する音声」が13本。

どうぞ自由にご活用ください。

21世紀の林竹二(続)

 昨年9月に「21世紀の林竹二(はやし たけじ)」という文章をアップした。
http://md-sendai.com/sendado/?p=497

 すると、ご研究を紹介させていただいた松本匡平さんが、これを読んでメールをくださった。うれしい限りである。
 お勤め先をネットで検索してみると、関西でも有数の進学校である中高一貫校で国語を教えておられるとのこと。林竹二の仕事が様々な形で受け継がれていることを知って、とても気持ちが明るくなった。

 先月、研究者インタビューの仕事で哲学の先生と社会学の先生を取材した。ネットでその下調べをしているうちに、川本隆史先生のお名前が何度か出てきた。「正義論」で知られるロールズの訳者としても有名な、日本の代表的な哲学者のお一人だ。
 この先生から私は、2003年に『教育の冒険 林竹二と宮城教育大学の1970年代』を出した時、メールをいただいたのである。たいへん高く評価していただき恐縮した。当時はまったく存じあげなかったが、慌てて感謝の返信を差し上げた。
 その時は東北大学にいらしたが、その後東京大学に移り、定年で退官なさった現在は国際基督教大学で教えておられる。

 東京大学では、たとえば2014年に教育学部で講じた「基礎教育概論」で、林竹二を取り上げておられた。
 シラバスの「授業の目的・概要」にはこうあった。

「西洋の教育の制度と思想を支えてきた複数の理念(理性、労働、自由、平等など)を社会倫理学および社会思想史の視座から点検していきたい。その助走路として、プラトン研究に出発し、歴史と現代に向き合いながら《教育の根底にあるもの》を探究し続けた人物、林竹二 (1906~85)の軌跡をたどることにする。」

 どんな授業なのか、残念ながら私の読解力ではほとんど分からないが、何となくうれしい(笑)。授業計画によれば、第2回のテーマは「哲学者・林竹二の冒険」。この回だけでもお話を聞いてみたかった。

 川本隆史先生は2006年に法務省の「法教育推進協議会」でお話をなさったそうで、その時のレジュメがネットに残っている。
https://www.moj.go.jp/content/000004283.pdf

 最後の「関連文献」一覧を見ると、先生が「月刊国語教育」(東京法令出版)という雑誌に、私の本を紹介してくださったらしいことが分かる。探して読もうとまでは思わないが、本当にありがたいことだ。

 どうせ私には分からないだろうと思って、川本隆史先生のお書きになったものは読んでいなかった。しかしこの機会に仙台市図書館で1冊借りてみた。
『共生から 双書・哲学塾』(2008年/岩波書店)
https://www.iwanami.co.jp/book/b260024.html

 一般市民向けに話し言葉で書かれているので、頑張って通読した。あくまで分からないなりにだが、面白く読むことができた。イメージだけで安易に語られがちな「共生」という言葉に、真摯に向き合う姿が感動的だ。生意気を言ってすみません(笑)。

 さて本家本元のわが母校、宮城教育大学はどうだろうと、久しぶりに公式サイトのページをめくってみた。すると現在の村松隆学長が、就任なさった2018年以来、入学式と学位記授与式で欠かさず林竹二を紹介してこられたことが分かった。
 そして何とこの2年間は、入学式の告示の中で私の本を紹介しておられたので腰を抜かした。

http://www.miyakyo-u.ac.jp/about/outline/message/message210406/index.html

http://www.miyakyo-u.ac.jp/about/outline/message/message200401/index.html

 今の1年生と2年生は、入学式で学長から私の名前を聞いている!
 「本学卒業生・大泉浩一君の著書「教育の冒険」」と述べておられるのだが、ありがたいだとか恐縮だとかを超えて、なぜか申し訳ない気持ちで一杯だ。

 私も60歳を過ぎた。残された人生を、自分なりに精一杯生きようと思う今日この頃である。

仙台スタジアムのロックンローラー

初出『Country Road 2003』

ベガルタ仙台・市民講演会(2004.1.24発行)

「プロのサッカー選手だった」
 っていう親父の話を、俺は小学校4年の夏休み明けまで信じていた。
 ホラだってことが分かったのは、同じクラスのマサが「休み中に調べたけど、お前の父ちゃんはプロのサッカー選手なんかじゃなかったぞ」って言ったのがきっかけだった。
「人の親父のことを夏休みの自由研究にするんじゃねえ」
 俺はそう言ってから殴ったと思うんだが、教室にいた他の奴らによれば、俺は何も言わずにいきなり殴ったらしい。まあどっちが正しいかなんてことはどうでもいい。とにかく俺はマサの顔を正面からぶん殴り、マサはぶっ飛んで、教室のどこかの角にぶつかってノビちまった。頭から血を流して。
 もちろん大騒ぎだ。
 学校に呼び出された親父に訳を話すと、親父の顔がみるみる青くなった。俺は目の前で人間の顔の色があんなに変わるのを初めて見たぞ。びっくりしたなー。親父はしばらく下を向いていたが、「それは、マサくんが、正しい…」と言ったっきり頭を抱えちまった。俺は呆然とした。おいおい、何てこったい。
 俺は学校から親父とお袋と、ついでに校長と一緒に、マサが入院した病院へ向かった。担任はマサに付き添って先に行っていた。
 幸いマサの怪我は大したことはなかった。いや、3針縫ったんだから大したことはあったんだが、出血がハデだったわりには傷は小さくて、レントゲンや脳波検査の結果も問題なかっていうことだ。さすがに俺もほっとしたが、この先のこと、つまり居並ぶ大人たちからさんざん絞られて、あの運動オンチのマサに謝ったり挙げ句の果てに握手させられたり仲直りの約束をさせられたりするのかと思うと激しくゲンナリした。
 だけどここからがドラマだったのよ。
 ベッドの上の、頭に包帯をぐるぐるに巻いたマサがうるうるになって、そして突然大声で泣き出したもんだから俺たちはびっくりした。泣きじゃくりながら、マサはでっかい声で繰り返した。「違うんだ、僕が悪いんだ」って。
 なだめて話を聞いてみると、マサは運動オンチのくせにサッカーオタクだった。俺が他の友達に「父ちゃんはプロのサッカー選手だった」って自慢してるのを聞いて、ワクワクして調べてみたらしい。ヒマな野郎だ。ところがいくら遡(さかのぼ)って調べてみても、俺と同じ名字のJリーガーなんていやしねえ。インターネットやら図書館やらで海外のクラブまで手を広げてみたが、結局見つからなかったって訳だ。
 奴は怒った。「同級生の父ちゃんがプロのサッカー選手だったと聞いて大喜びで調べてみたのに何だ!」っていうわけだ。俺に文句を言って、そして思いきり殴られた。
 だけど僕が勝手にやったことで、殴られたって仕方ない言い方をしたんだからって、マサの奴はそう言ってまた声を上げて泣いた。
 病室はシーンとして、みんなうなだれちまった。
 一番困っていたのは、もちろん俺の親父だった。しまいには大の大人のくせに、涙をボロボロ流してマサに謝ったんだ。こうして俺の親父はプロのサッカー選手じゃなくて、ただのバカだったことが明らかになった。そしてもちろんバカは遺伝する。どうしたわけか、つられて俺もその場でオイオイ泣いちまったんだ。全く恥ずかしい話さ。まあ、あの時はガキだったんだからしょうがないな。な、そうだろ。
 それにしても今になって思えば、小4まで親父の嘘を信じてたっていうのは、我ながらかなり思い込みの激しいタイプだな。サンタクロースの正体は保育所時代に見破っていたのによ。まあ親父も俺が小さい頃に何かのハズミで「サッカー選手だった」って言っちまって、それっきり引っ込みがつかなくなったんだろうけど、やっぱり信じ続けた俺の方もおかしい。
 ところでおかしなことに、あの日以来俺の親父とマサの親父は大の親友になっちまった。マサの親父もクレージーなベガルタのファンだったからだ。病院の廊下で話が盛り上がり、大きな声を出して看護師に注意された。
 マサのお袋さんは怒ったな。すげえ怒った。それは目の前で見てたから俺も覚えてる。マサの親父さんは少ししゅんとなったけど、またすぐに俺の親父と盛り上がってその晩飲みに行ったから、お袋さんから一週間口をきいてもらえなかったそうだ。
 そしてもちろん俺とマサも、それ以来親友になった。いや、悪友か? それとも腐れ縁か?
 あれからしばらくの間、俺はマサにサッカーを教えてやった。最初は驚きの連続だったな。だってマサは、思いきり蹴ってもボールが俺の半分も飛ばないんだぜ。まっすぐ前にも飛ばない。ヒョロヒョロのヨタヨタだ。
 だいたいフォームが変なんだよ。何であんな変な格好でボール蹴るんだよ。ボールに申し訳ないじゃないか。
 俺がキレてでかい声を出すと、何てったって前科一犯だからな、職員室の窓からハラハラして見てた先生がビューンって飛んで来る。
 俺が精一杯ニコニコして「何でもありません大丈夫です」って言ってるのに、マサの方はもう半泣きだからさ、先生は納得しない。目が完全に吊り上がっている。先生、あれはマサがボールをちゃんと蹴れなくて悔し泣きしてたんだってば。マサも自分でそう言ってるのに、ちっとも信用しないんだからなー。
 だけど今思い出しても、あの校庭はよかった。
 ほら、小学校の校庭って、今はほとんど芝生じゃん。昔はただの土だったんだよな。俺が子供の頃少しずつ芝生になってったんだけど、俺のいた小学校は早い方だったんだ。
 芝生って、寝転がっても裸足で走っても気持ちいいだろ。それがうれしくて、俺は小さい時から毎日のように小学校に行って、親父とボールを蹴っていた。そして小学校に入ると、毎朝門の前で学校が開くのを待って、ずーっとフットサルをやってた。
 校庭にはコートが6面とれた。クラスや地域の仲間で12のチームをつくり、毎日対戦してはその結果を学校の掲示板に書き出してたよ。「1部リーグ」と「2部リーグ」があって、その間を上がったり下がったりするんだ。女子だけのチームもあって、結構強かったな。あれは面白かった。
 マサも俺たちのチームに入れて、ときどきは出番をつくってやった。だけどあいつはやっぱり審判をやったり記録をつけてる方が楽しそうだったな。それからマネージメントっていうか、連絡とか調整とかもあいつに任せておくと安心だった。
 マサの頭には今でもあの時の傷跡が残ってて、その周りはすこーしハゲになっている。女と飲むたびに頭のハゲを見せて、子供の時に俺にやられたんだって自慢してるそうだ。実はあいつもバカだった。
 マサは大学に受かった。頭はいいからな。そして二十歳になるのを待って自分の会社をつくった。今はフットサルコートを中心にした小さいスポーツ施設を運営している。試合が終わった後、クラブハウスで自分たちのプレーのビデオを見ながらビールを飲んだりできるところが結構ウケているらしい。今じゃ学生ながらいっぱしの企業家っていうわけさ。

 俺の誕生日は、2001年の11月18日だ。
 その日親父は、京都の西京極総合運動公園にいた。伝説の、ベガルタが最終節で一度目のJ1昇格を決めた試合だ。
 お袋も熱狂的なサポーターで、ぎりぎりまで自分も京都に行く気でいたらしい。俺を生んですぐに親父の携帯に電話をし、その後俺に初乳をくれながら病院のテレビでベガルタを応援したというとんでもない女だ。試合終了の瞬間、あぶなく俺を病室の天井まで胴上げするところだったと、これは自分で言っていたから間違いない。
 親父とお袋は、当時大好きだったベガルタの選手の名前を俺につけた。だから昔っからのサポーターの中には、俺のことを「2代目」っていうアダ名で呼ぶ奴もいる。俺は別に気にしちゃあいないが。
 あとは俺のことを「ロック」って呼ぶサポーターも多いな。これは俺がインタビューで好きな音楽を聞かれると、必ず「ロック」って答えるからだ。
 俺はしゃべるのが苦手だから、マスコミの人たちは本当に困っちまうみたいだ。向うも商売だから「好きなアーティストは?」とか「お気に入りの曲は?」とか聞いてくるんだけど、俺はそれ以上答えない。「いや、その…」とか言ってにやにやしてると、そのうちほとんどの人は諦めてくれる。粘る人には「実はアーティストとか曲とか、名前覚えられないんっスよ」と笑って言うと許してくれる。
 本当を言えば俺だって、惚れてるミュージシャンや宝石みたいに思ってる曲はあるさ。だけど俺は、本当に大切なものはそう簡単に人に教えちゃいけないんじゃないかと思ってる。俺にとってはロックがそうなんだ。俺って、ちょっと古いかな。
 俺には、ガキの頃からなりたいものが二つあった。どっちも同じくらいに、絶対に強烈になりたかったものが。
 一つめはプロのサッカー選手。これはもちろんベガルタの選手じゃなくちゃいけない。何てったって両親に「他のチームは敵だ! 鬼だ! 悪魔だ!」って教えられて育ったんだ。他のチームのユニフォームを着ることなんてこれっぽっちも考えられなかった。
 俺は小学校入学前からベガルタのスクールに入って、ジュニアユース、ユースと進んでトップに上がった。今じゃベンチ入りの半分は俺みたいなユース出身だけど、昔はそうじゃなかったらしい。ベガルタの場合Jリーグが始まってからチームができたから、よそから実績のある選手が集まって来て、チームを育ててくれた時期が長かったそうだ。ベガルタが初めてユース出身の選手をよそにレンタルした時には、親父は感慨深そうだったな。
 俺は、小さい頃からとにかくよくベガルタの試合を見てた。時々はアウェイにも連れていってもらってたし、サテライトやユースもずいぶん見たな。
 自分がトップでプレーするようになった今、それはすごく生きてると思う。だから親父とお袋には感謝している。
 プレーする時、俺の体はフィールドにいるのに、アタマの中では自然にスタンドから見下ろす図が描けている。自分が次の瞬間どこにいて何をやらなくちゃいけないか、俺にはいつだって明々白々なんだ。
 前にテレビで将棋指しの人が、瞬間に何手も先まで何通りも読むって言ってたけど、あれ、よく分かるな。頭の中にいろんな動きのパターンがゴチャゴチャって入ってるんだけど、その瞬間、必要なやつだけがピーッて整列する感じ。俺はそのイメージの列の中を一直線に駆け抜けて、やるべきことをやるだけなんだ。
 ところが、俺自身の体がついて行けずに、やるべきことができない時がある。俺は自分に怒る。今この瞬間にやるべきことが、まるでイメージできないチームメートにも怒る。だから結構怒ってるな、試合中。
 だけど試合前、フィールドでの練習が始まる時には、俺はうれしくってゾクゾクする。サポーターの歓声が、ガンッて感じで俺にぶつかってくる。コールに応えて左手を上げる。そして、最初にボールを大きく蹴り上げた時に見る空。
 仙台スタジアムは俺にとって特別な場所だ。ピッチとスタンドがものすごく近いとか、声援が客席の屋根に反響してすごい迫力で聞こえるとか。そういうのも確かにある。だけど、何かそれだけじゃなくて、もともとあそこは俺たちにとって聖なる場所だっていう感じがするんだ。
 うまく説明できないけど——
 二万人で一つの神輿(みこし)を担ぐ祭りの、ど真ん中にいるような感じ。
 笛が鳴った瞬間、俺に何かが乗り移る。
 俺たち十一人は一匹の凶暴なケダモノと化して、一つの球を敵と奪い合う。あの快感。
 そして俺は、あんぐりと開いた敵の口にその球を放り込むんだ。
 俺が、そしてスタジアム全体が、シャウト! シャウト! シャウト!
 こうして俺は、ベガルタのプレイヤーになってガキの頃からの夢を叶えた。本当に幸せだ。
 だけどもう一つ、俺には絶対になりたいものがあった。
 それはベガルタのサポーターだ。
 そりゃまあ赤ん坊のときから仙台スタジアムには行ってたさ。だけどオトナだよ、あのカッコいいオトナのサポーターになりたかったんだ。
 この夢も、俺は絶対に叶える。
 引退した後もサッカーの世界で生きて行くことは、俺はとっくに諦めている。
 なんせしゃべるのがさっぱりだ。ダチや選手同士でしゃべる分にはまったく問題ないんだが、あらたまって何か言わなくちゃならないとなると頭の中が真っ白ケになっちまう。
 さっき、インタビューの話をしたけど、好きな音楽以外のことを聞かれても、俺の答えのほとんどは「はい」か「いえ」。もしくは単語1個だ。いや、たまに2個のことがあるな。「次、決めます」とかな。これじゃ解説とかそういうのはダメだろう? ダイジョブ? あ、そ、やっぱりダメ。
 指導者もムリだな。小学生相手のサッカースクールに引っ張り出されたことがあるけど、「頑張れ」「思い切って行け」「死ぬ気で行け」しか言えなかったもんな。
 何歳までプレーできるか分からないけど、俺の第二の人生は普通のサラリーマンがいい。マサは「その頃には俺の会社が大きくなってるから雇ってやるよ」って言っているが、あいつから給料もらうのは、ちょっと、なー。
 とにかく俺が次に就くのは、ベガルタの試合がある日に絶対に休める仕事だ。もちろんアウェイもだ。そんな都合のいい仕事があるのかよく分からないけど、親父をはじめ試合の時には必ずスタジアムにいるサポーターを見てると、どうにかなるんじゃないかって思える。
 少し年をとった俺は、スタンドで一番でかい声を出して歌う。そして気合いの足りねえ選手がいたら、思いっきりヤジる。
 もちろんその頃には結婚していて、女房子供も一緒だ。そうして俺は、子供に言ってやるつもりさ。「俺はプロのサッカー選手だったんだぞ」ってな。
 ついでに「実はじいちゃんもそうだったんだぞ」って言うことにしよう。子供が「本当?」て聞いたら、親父はたぶん「本当だ」って答えるな。バカだから。ああ、その日が来るのが今から楽しみだ。
 そう言えば、こないだサッカー協会の偉い人と二人っきりになった時、ヘンなこと言われたな。「学生時代、君のお父さんとは合宿で一緒になったことがある。未来をショクボウされていたが…」って。
 俺は黙っていた。なぜなら、もちろん「ショクボウ」という言葉の意味が分からなかったからだ。「食堂」の聞き間違いじゃねえよな、意味通じないし、とか思っていた。
 仕方ないから俺は次の言葉を待ってたけど、偉い人も俺の返事を待っていた。あれは気まずかった。
 あの時は部屋に他の人が入って来て「助かった」と思ったけど、あれはいったい何だったんだろうな。親父もプロじゃないけどサッカーやってたってことなのかな。
 部屋に帰ったらショクボウの意味を調べようと思ったんだけど、これがつい忘れちゃうんだよな。って言うか、本当は高校出る時捨てちゃったから、俺の部屋に辞書がないのが悪いんだ。
 本屋に行くヒマないし、だいたい言葉一個調べるのに辞書買うのも馬鹿みたいだ。コンビニに売ってりゃ買うんだけどなー。
 と言うわけで、この件はいまだに謎のままだ。何だよ、そんなに呆れるなよ。いや、調べる、調べるって、そのうち。そして親父にちゃんと聞いてみるからさ。そうだ、マサに電話で聞いてみよう。

 今は毎年優勝争いに絡んでいるベガルタだけど、2部から始めてJ1に上がった後も、一度はJ2に落ちたことがあるそうだ。俺は小さかったから、よく覚えていない。
 だけどベガルタには、それで応援をやめちまうような腰抜けのサポーターはいなかった。
 むしろみんな腰を入れ直した。
 それでも「あの時は、いろんなことがグラグラと揺らいで本当に苦しかった」と、親父とお袋がしゃべっているのを聞いたことがある。
 そう言えば俺が小さい時、親父とお袋がよく「戦術ダマシイ!」と叫んで喝を入れ合っていたけど、考えてみれば、あれはちょうどベガルタがJ2にいた時だったようだ。「戦術魂」というのがどういう意味なのか、俺にはよく分からない。だけどサポーターが試合に向けて根性を据える時の掛け声らしい。親父とお袋に意味を聞いてみたこともあったけど、二人とも「大きくなったら教えてやる」と言い続けてそれっきり、いまだに教えてくれない。あるいはただ忘れているだけかもしれないが。
 まあいいさ。さっきも言ったけど、誰にだって大切なものはあって、それは簡単に人に教えていいもんじゃないもんな。
 そんなJ2の時代も耐え、長い時間をかけて、ベガルタは少しずつ強いチームになって行った。
 そして今年、俺たちはJ1を制覇した。
 仙台スタジアムで優勝を決めた瞬間、俺は大声を上げて泣いちまった。小学校4年生のあの時以来だ。
 格別だな、リーグ王者になるっていうのは。
 俺は今年絶好調で得点王まで獲(と)っちまったけど、まったくサポーターのおかげだ。あの応援の!
 来年は、ちょっくら海外で出稼ぎもある。
 俺はゴールを決めて、きっとユニフォームを脱ぐ。みんな驚くだろうな。その下のシャツには、「ベガサポサイコー」って書いてあるんだから。
 さあ、いっちょうあの純金製のワールドカップトロフィーを日本に持って帰るとするか!

   *

ベガルタ仙台・市民講演会
「カントリーロード2003」販売開始のお知らせ
http://www.vegalta-sa.org/04/cr2003.htm

ベガルタ仙台
1994年 ブランメル仙台
1999年 Jリーグ2部参入
2002年〜 1部
2004年〜 2部
2010年〜 1部
2022年〜 2部

宮城球場と私

昨日発売された『Kappo 仙台闊歩』に原稿を書いた。

10年ぶりくらいの依頼だったので、メールが来た時には驚いた。

昭和の特集をするので、「宮城球場と私」という題で1000文字くらい書いてほしいとのこと。

書評、読み物、プロスポーツ関係のニュースなど、ずいぶんお仕事をいただいた雑誌だ。ありがたくお受けした。

掘り出した写真の中から、掲載されなかったものを1枚。

https://kappo.machico.mu/books/5526