最後の更新は沖縄旅行

古宇利大橋にて

 10年ぶり10回目の沖縄だ。
 これまでは親を含む家族と一緒か、仕事で他のスタッフと一緒だった(楽天イーグルスのキャンプ取材)。仕事が終わったあとに一人だけ残ってダイビングをしたことはあったが、最初から最後まで一人きりの観光旅行は今回が初めてである。

 3月前半の沖縄は旅行シーズン直前だ。気候はいいのに空いているしあれこれ安い。
 そうは言っても外国人観光客にも大人気だけに、飛行機や宿は早く予約しないと、高くなったり取れなかったりする。ネットで情報を調べ、早々に4泊5日のスケジュールを組んだ。

 テーマは3つ。1に、まず節約。目標はトータルで8万円だ。
 飛行機の節約は難しい。仙台・沖縄間の直行便は、ANAの一日一往復しかない。公式サイトを使ってかなり早く、日曜に出て木曜に戻る便を、往復32000円ほどで取った。

 次は宿。海を見たり海で泳いだりが目的なので、名護市か恩納村が有力候補だ。
 しかし那覇はともかく、観光地の宿は基本的にツイン以上で、一人だと割高になる。ネットでシングルもしくは安いシングルユースを探し、名護市の東江(あがりえ)に3泊、喜瀬(きせ)に1泊と決めた。沖縄は難読地名の宝庫で、それぞれ最寄りのバス停は世冨慶(よふけ)と伊武部(いんぶ)だという。早めの予約で4泊28000円くらい。

 総予算が8万円なのに、飛行機と宿だけでもう6万円。
 沖縄旅行の王道はレンタカーで、これまでは毎回使った。しかし4泊5日だと、安くても25000円くらいはする。ほとんど乗らない日もあるだろう。車に一人だけ乗って観光して回ると、地球が怒るだろう。だから今回はバスを使った。
 沖縄の路線バスは充実しているが、乗り換えはちょっと億劫だ。一方で那覇空港から恩納村や名護市を経由して海洋博記念公園に行くルートには、3社が高速バスを出している。停留所や料金は色々だ。もちろん路線バスもあるから、ネットで時刻表を調べ、宿に近いバス停を地図で確認したり、万一乗り遅れた場合の対策を練った。こういう作業は結構楽しい。

 私は衣食住には関心が薄い。
 だからそもそも収入が低いのに、日頃の生活を切り詰めてでも、酒と本と旅に金を回そうとする。旅先でも宿で朝食が食べられれば、夕食はコンビニや弁当屋で買ったもので十分だ(ビールさえあれば)。だから食費については、実に安上がりである。

 節約に続くテーマ2は、運動不足の一挙解消だ。
 私の今の主な仕事である大学の授業は、1月から3月までほとんどない。だからどうしても家で本を読んだりネットを見たりする時間が長くなる。自分では意識して体を動かしているつもりだが、体重計はお世辞を言わない。そこで自転車だ。

 「いつかは沖縄を自転車で走りたい」とずっと思っていた。しかし還暦を過ぎると「いつかは」とか「そのうち」なんてものは、もうやって来ないことを痛感する。ここ数年は新型コロナウイルス騒ぎもあっただけに、その思いはひとしおだ。
 自転車は持っているが乗るのは月に数回で、時間も30分程度。一方で6年前にはレンタサイクルのクロスバイクで、しまなみ海道を走破した。無茶である。今回も沖縄のレンタサイクルを探したが意外に苦戦した。しかもスポーツタイプでスピードも楽しみたいのであって、シティサイクル(いわゆるママチャリ)や電動アシストには乗りたくない。狷介(けんかい)である。結果的にはクロスバイクを借りて、2日間走ることができた。

 本当は、10年ぶりにシュノーケリングも楽しみたかった。
 ダイビングはもう諦めていたが、シュノーケリングならまだいけると思っていたのである。しかし多くのショップで年齢制限に引っかかった。ちとショック…。私の年齢でも、また一人から参加できるところも、ないわけではない。しかしバスでの移動という制約もあるため、宿のビーチで海水浴という現実路線に切り替えた。体を動かす楽しみのメーンは、あくまで自転車だ。

 テーマの3は星空だ。
 わが家は住宅街にあるが、隣の空き地(駐車場)でも3等星までは見える(ただし空は、ちょっと狭い)。私は極端な早寝早起きなので、晴れていれば朝の4時から5時の間に、そこで数分間だけ星を見る。星座にも宇宙にも全く詳しくないが、沖縄では仙台とちょっとだけ違う星空が見られるし、なにより海の上は空が広い。
 もう一つ。海洋博記念公園には、美(ちゅ)ら海水族館だけでなく海洋文化館という施設もある。建物が思いきり地味で、入場料がプラネタリウム代込みで190円とあまりに安いため期待が持てず、これまで入ったことはなかった。しかし念のために公式サイトをチェックすると、以前からぜひ見たかったプラネタリウム番組の「銀河鉄道の夜」を、たまたま、偶然にも、幸運なことに、ちょうど3月からやるという。これで雨に降られた日にも楽しみができた。

1日目

 家を出たときは雪が降っていて不安だったが、仙台空港で晴れた。左の窓から富士山が見えた。

 路線バスで那覇空港から世冨慶へ。2150円。外国人の個人客も乗り込んでくる。「中国語ワカラナイ。日本語ダケ」と、女性の運転手さんが対応に奮戦していた。
 最初の3泊は、海に近くシングルルームがある「ホテルルートイン名護」を選んだ。公式サイトで最初に写真を見たときは目を疑ったが、なんと屋上が、ビアガーデンではなく大浴場になっている。とても楽しいが、洗い場ももちろん屋外で、さすがに3月の夜や風の日は寒い(いちおう壁はある)。
 徒歩3分もかからずに、東江ビーチに出られる。海水浴場ではないが、砂浜や遊歩道を散策できるのが素晴らしい。

 1日目は「ほっともっと名護東江店」でゴーヤー弁当(豚しょうが焼き入りタイプ580円)を買い、部屋で食べて(ビールを飲んで)寝た。

2日目

 配達専門のレンタサイクル「ノレジオサイクル」に、前日の朝、家を出る前になって予約を入れた。天気予報がどんどん変わって心配だったからだが、幸い借りられた。クロスバイクが、名護市と今帰仁村なら配達・回収料を含めて基本の3500円で借りられる。個人で営業しているようで、実はちょうど前日までの10日間は休業中だった。ラッキーである。ギアやコースについて、親切にアドバイスしてもらえたのも良かった。
 朝8時過ぎに出発。天気晴れ。古宇利(こうり)大橋を走りたい、という以外は特に考えていなかったが、結局6時間も乗ってしまった。写真は東江の海。

 名護市中心部から屋我地(やがじ)島を経て、古宇利大橋を渡る。眺めが素晴らしいことは言うまでもない。

 ノレジオサイクルさんは「橋の上からウミガメが見られるかもしれませんよ」と言っていたが、残念ながら縁がなかった。しかしたびたび自転車を止めて橋から見下ろすと、そのたびに海の透明度に息を飲んだ。じっと見ていると吸い込まれてしまいそうである。自動車は橋の途中で止めることはできないため、これは自転車(か徒歩)ならではの楽しみだ。

 古宇利島を一周した。ここまででも結構な高低差があったため、ここで引き返しても十分サイクリングを満喫できたと思う。しかし私は屋我地島で名護市街と逆方向に坂を上り、ワルミ大橋も渡った。
 ここで帰途につくのが正解だった(私の体力では)。しかし欲を出して「世界遺産の今帰仁城(なきじんぐすく)跡に行ってみよう」と思ったのが運の尽き。強烈な上り坂だったのである(私にとっては)。途中何度も押して歩こうと思った。しかしムキになって、休みながらもこぎ続けた。何とか登りきったものの、入場料を払ってまで門を入り、さらに上まで歩こうとは思えないほど疲れた。

 「ここまで来たら…」と思いがちなのが私の悪い癖だ。よせばいいのに、国道505号から名護湾沿いに国道449号を通って帰ることにした。しかし海沿いの道ながら結構な起伏があり、しかもここにきて強い向かい風に見舞われた。苦しい。昼食の機会を逸し、持っていたアメでやり過ごす。しまいには名護市街地に入ってからも、誤って449号のまま坂を上るというオマケつき。午後2時過ぎに宿に着いた時には、本当にふらふらだった。
 結局72km近くも走ってしまい、あぶなくしまなみ海道の走行距離75kmを超えて自己ベストを更新してしまうところだった。部屋でシャワーを浴び、屋上の大浴場に浸かって足をもみ、ベッドに倒れ込んでふと気付けば「あれ、もう暗い…」である。夕日を見には行けなかった。
 2日目も「ほっともっと名護東江店」でゴーヤー弁当(ゴーヤーのみタイプ580円)を買い、部屋で食べて(ビールを飲んで)寝た。

3日目

 前夜に降り始めた雨は明け方までには上がった。天気晴朗なれど風強し。今日は体を休めてプラネタリウムの日と決める。ついでに美ら海水族館にも行く。入館料は2180円だが、宿の近くのコンビニでチケットを買っておけば1950円だ。
 世冨慶から記念公園前までは、やんばる急行バスで730円。水族館の入口へは一つ先のホテル前のバス停が近い。8時半開館の水族館は、私が入った9時過ぎの時点で早くも混み混みだ。修学旅行の団体もいる。何度も来ているが、ジンベエザメやマンタのいる大水槽はさすがの迫力だ。しかしその隅っこでくつろいでいる、この二人も見逃せない。

 水族館の周辺からは、伊江島がよく見える。とんがった城山(ぐすくやま)がカッコいい。天候しだいだが、翌日は船でこの島に渡るのも選択肢の一つだ。

 前日は縁がなかったウミガメだが、この日は縁があった。水族館から出た無料エリアにコーナーがあるのだ。ここは人がほとんど来ないため、思わずのんびりしてしまう。

 さあ、目当ての海洋文化館だ。もう一度書くが、入館料は190円だ。水族館の10分の1だ。水族館が前売り券で安くなる分の230円よりもまだ安い。念のため受付で尋ねた。「この料金でプラネタリウムは何回見られますか」「何回でもどうぞ」「いちど出てお昼を食べてから再入館できますか」「当日中であれば何度でもどうぞ」
 海洋文化館の展示のメーンは、大小の多数の舟だ。沖縄だけでなく太平洋の島々の、伝統工法による舟が一度に見られる上に、文化も学ぶことができる。しかし私の目は、つい「所有者が変わっても動かさない巨大な石のお金」とかに向かってしまう。中でも一番気に入ったのはこれだ(何に使うかという説明は読まなかった)。

 プラネタリウムでは色々なプログラムを順番にかける。上映は全て30分で、その後の15分での入れ替え制。私は3本見たが、どれも面白かった。中でもKAGAYA氏の「銀河鉄道の夜」は平面版を見て感動を覚えたのだが(仙台市図書館でDVDを借りた)、プラネタリウム版も期待を裏切らない素晴らしさだった。
 帰りもやんばる急行バスで730円。それにしても、世界中の老若男女がスマホかカードで料金を払う。私はガラケー。滞在中、私以外に現金で払った人を見なかった。
 この日も東江の夕暮れは美しかった。

 3日目も「ほっともっと名護東江店」でゴーヤー弁当(鳥の唐揚げ入りタイプ600円)を買い、部屋で食べて(ビールを飲んで)寝た。

4日目

 朝4時に宿を出て海岸へと向かう。雲はわずか。街場だし港にも近いので空が暗いとは言えないが、新月の時期だったのはありがたい。なるほど北斗七星も北極星もやや低く、水平線上の西の空には星が多い。久しぶりに流れ星も見ることができ、満足。チェックアウト。
 晴天につき、いざ伊江島ツアー。前々日は自転車から、前日はバスの座席から眺めた名護湾を、この日は船上からと山頂からも見る。
 やんばる急行バスの昨日と同じ便に乗り、本部(もとぶ)港まで560円。フェリーで30分、割引往復券1390円。伊江島発だと割引往復券が少し安いのは、住民の便益のためだろう。本部、伊江の両港にコンビニなどはないが、船内には売店があるのが面白い。島の滞在は9時半から13時の3時間半だ。
 出港前の船の中から伊江島の「TM. Planning」に電話をして尋ねると、レンタサイクルはクロスバイク(というよりはマウンテンバイク)にも空きがあるという。よし。1日1500円。
 驚いたのはカギがないことだ。「カギは?」「ありません。この島では自転車は盗まれません。」そ、そうですか…。最初に目指すべき、と教えられた城山の標高は172mで、頂上まで階段で登れるという。島内から見上げるとこんな感じだ。

 登山口の駐輪場まで自転車をこぐだけで結構な上りだが、さらに上には駐車場と売店がある。そこから見上げるとこんな感じだ。

 山頂からの絶景写真は省く。しかしこの立て札には笑った。「人のやらないことをやる」迷惑な人はどこにでも現れるのだ(私もどちらかというとそうだが)。

 あとは基本的に下り坂と平地である。海沿いを走り、ときどき海岸に出て歩く。2日目のサイクリングではギリギリ脇を走るダンプカーに何度も怖い思いをしたが、ここでは自動車そのものをほとんど見なかった。快適である。

 リリーフィールド公園に、まだユリは咲いていなかった。しかしこんな看板を見たら、行ってみないではいられない。

 村長の警告は、決して大げさではなかった。この日は風もあったからだろうが、間近で人よりも高く波しぶきが上がるのである。

 湧出(わじ)の展望台も良かった。岸には近づけないが、ここも本日は波しぶきが見事だった。

 草地や畑が広がり、その向こうには水平線が見える。伊江島は船でわずか30分だが、橋が架かっていないし巨大ホテルもないせいか、明るくも落ち着いた雰囲気で、晴れてさえいれば自転車や歩きを楽しむには最高だ。

 船内で買ったおにぎりを食べ、本部港に戻る。今度はエアポートシャトルのバスで、かりゆしビーチへ。1000円。
 プライベートビーチを見下ろす丘に、豪華な2つの高層ホテル計3棟がそびえる一大リゾート「かりゆしワンダーランド」が広がっている。構内にはヘリポートがあって、公式サイトによると遊覧飛行はもちろん、那覇空港との間でタクシー代わりにも使えるという。車なら1時間20分かかるところを20分で結び、料金は片道15万円だそうだ。
 このワンダーランドが何を思ったのか、低層4階建の、第3のホテルをビーチに建てた。山側の部屋はシングルユースOKで、海水浴場には部屋から水着のままで出られる。私が泊まったのは、もちろんこの「かりゆしLCHリゾート オン ザ ビーチ」だ。海開きは毎年3月上旬で、今年は3月4日にオープンしたばかり。ラッキーである。
 料金も(上のホテルに比べれば)リーズナブル。今ならグラスボートの乗船券もつけるし、3月20日までは上のホテルの中にある大浴場のチケットもサービスするという。ラッキーである。

 さて問題はここからだ。極限までコストを抑えるため、サービスは限定的。公式サイトには「ご予約前にご確認をお願いいたします」というページがあって、たとえばフロントでは荷物を預からない。有料コインロッカーを使う。客室にはシャワーだけでバスタブはない。電話も金庫もない。すごいのはフロントでスタッフに何か教えてもらうと220円、何か手配を頼むと550円かかり、その場で支払うことだ。
 ちゃんと「ご予約前にご確認を」したつもりだったが、到着してまず驚いたのは、フロントらしきものが見当たらなかったことだ。低いカウンターはあるが、その向こうではダークグラスをかけて黒いポロシャツを着た女性が、座ってパソコン作業をしている。え、まさかなー。しかし彼女は私の視線に気付くと言った。「チェックインでしょうか?」
 確認、支払い、注意事項などの説明は立て板に水の如しで、いっそ爽やかなほどだ。いや、私はこういうやり取りが嫌いではない。しかし同時に、チップが怖くて海外旅行をためらう人間でもある。この機を逃したら、あとで質問するとそのたびに220円かかると思うと顔がひきつる。
 ぶじ関門をくぐり、部屋の中を確かめて水着に着替え、いざ泳がん。

 ところが海水浴エリアに行ってみると、海が無いのである。
 黄色い旗は「遊泳注意」。風のせいかと思ったら、深いところでも水が足首までしかない。監視員はいる。「あのー、泳ぎたかったのですが…」「あー、今ちょうど干潮で、満潮になると足がつかないくらいの深さになりますから」「それはいつですか?」「次は明日の午前10時頃ですね」「なるほどー。そう言えば公式サイトに満潮と干潮の時刻と、水深の予報が出ていましたねー」「そうなんですよー」と、会話はあくまで明るい。しかし水着姿の還暦男は、ただ一人じっと海をにらみ続けるしかなかった。
 ちなみにこのビーチのマリンスポーツショップでは、シュノーケリングは59歳まで、ダイビングは49歳までである。うかうかしていると、海水浴だって年齢を理由に拒まれかねない。

 海に入れないなら風呂に入るしかない。
 大浴場のチケットをもらったが、これは丘の上のホテル「沖縄かりゆしビーチリゾート・オーシャンスパ」の中にある。構内巡回車(これは無料)を電話で呼び出すか、15分かけて歩いて上るのだ。怖くてフロントには近づけないので歩き始めると、なぜか丘の下に、手持ちぶさたの巡回車が待っている。安い客が一人だけでは申し訳ないと思ったが、乗せてもらった。
 建物に着くと、豪華絢爛の別世界である。おそろしく広いため、歩いても歩いても容易には大浴場に行き着かない。途中でプールの写真を撮ってみた。こうしたステージで歓声を上げることのないまま、私はこの歳になった。

 風呂は良かった。しかし「風呂上がりのお客様限定」で販売していた、ブルーシールアイスクリームが100円なのはもっと良かった。海洋博記念公園で売っていたものは(私には)手が出なかったが、これなら買える。もちろんおいしい。

 泊まったホテルの中に、夕食がとれる場所はない(ビーチでバーベキュー、はある)。上のホテルの夕食は、(私には)手が出ない。コンビニ弁当で済ますこともできたが、沖縄で最後の夜だしと思って、ネットで調べておいた「なかま食堂」に入ってみた。
 注文はお店イチ押しのソーキそば1200円である。しかし運ばれて来てみると、それは私が食べたことのあるソーキそばではなかった。ソーキ(豚の骨付き肋(あばら)肉を煮込んだスペアリブ)が巨大で、どんぶりに入らないのである。

 「あのー、これはどうやって食べるんですか?」「手でつかんでかぶりついてください」そ、そうですか。ナイフとフォークを頼もうかと思ったが、店の作りからしてそんなものは無さそうだ。衣食住に淡白な私は見ただけで満腹感を覚えたが、まさか逃げ出すわけにもいかない。隣の席の客におすそ分け、というわけにもいかないだろう。よし、チャレンジだ!
 指先と口の周りをベトベトにしながら、拭いては食べ、拭いては食べ。おいしかったし良い思い出にもなった。しかし私にとっては、これが人生で最後のソーキそばだ。

5日目

 いよいよ最終日だ。空は晴れ渡り、風も穏やか。海水浴場は朝9時に開く。そして飛行機が飛ぶのは14時過ぎだが、都合の良いバスは9時58分にホテル前を出発する。あなたなら泳ぐだろうか? 私ならもちろん泳ぐ。

 水着に着替え、ビーチで準備運動をして9時になるのを待つ。たった一人、私のためだけにスタッフが監視台に上がる。

 海に入る。冷たい。足を進めると、今日はあっという間に腰の深さに達する。胸に水をかけ、肩に水をかける。冷たい。ゴーグルをして頭まで潜る。楽しい。ゆっくりと平泳ぎで進む。息継ぎをする。楽しい。魚は見えないが、水がきれいだ。少しだけ泳いで立つ。呼吸を整える。また少しだけ泳いで立つ。繰り返す。楽しい。おそらくは人生最後の海水浴万歳!
 わずか15分で上がる。スタッフに礼を言う。シャワーに急ぐ。部屋に急ぐ。また急いでシャワーを浴びる。急いで体を拭いて、急いで服を着る。急いで荷物を詰め直す。急いでチェックアウトする。バスが来ている。急いで道を渡る。あれ、昨日と同じ運転手さんですね。エアポートシャトルで、那覇空港ひとつ手前の旭橋まで1600円。那覇バスターミナルの上に移転した、まだ新しい県立図書館を見学する。ゆいレールに乗る。改札で切符の挿入口が見あたらずに焦る。駅員が、バーコードを読み取らせるのだと教えてくれる。空港に着く。出発までは1時間と少しある。搭乗が始まる。本日の仙台便は満席でございます。私は通路側の席で、持って来た文庫本を、この旅に出て初めて開いた。

 結果として、節約、自転車と海水浴、星空という3つのテーマは全て達成できた。
 事前調査のたまものではあるが、現地でびっくりしたことも多く、やはりネットの情報には限界があった。そして何より、天候に恵まれた。

 以上の通り、私にとって沖縄といえば「青い海と青い空」である。
 しかしたとえば伊江島が沖縄戦の激戦地の一つで、多くの民間人が犠牲になったことは知っている。今も島の北西部には広大な米軍基地があって、観光パンフレットに「戦後の米民政府による土地接収は、住宅を壊し農作物を焼き払われる惨状。農民たちはその惨状を県下を行進し訴えました」と書かれているのだ。
 以前の旅で、平和祈念公園やひめゆりの塔には家族で行った。丸木位里・俊の「沖縄戦の図」を展示する、宜野湾市の佐喜眞美術館には一人で行った。しかし本質的には、私は辺野古沖を埋め立てる側の人間だ。
 私にはもう、「いつかは」や「そのうち」は無い。
 だから頑張って貯金をして、「きっと」また沖縄に行きたいと思っている。

 このサイトはあと数カ月で閉鎖します。ブログの更新はこれが最後です。
 ご覧いただいた皆様、どうもありがとうございました。

12年目の三陸に、海を見に行く

三陸に、2年ぶりに海を見に行く。

2020年・2021年はこちら

日程の都合で、たまたま東日本大震災からちょうど12年目に再訪することになった。宿は岩手県宮古市に2泊。

3月10日(金)。三陸自動車道を北上して、道の駅大谷海岸へ。震災前はたびたび海水浴に来た。震災後も何度か来ている。

車で10分ほどの「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」へ、初めて行った。被災した高校の建物を保存している。最初に巨大スクリーンで当時の津波の映像を13分間見てから、校舎を巡る。

再び三陸道に乗って宮古へ。そしてまず浄土ヶ浜へ。レストハウスの前の海水浴場の岩が午後の陽を浴びて、変わることなく美しい。今回の目当ての一つが、夜もう一度ここに来て星を見ることだ。

今回は宮古港に面したホテルアートシティに連泊する。チェックインを終えたら、堤防のゲートを通って港へ出る。徒歩3分。魚市場、道の駅、遊覧船の発着場がある。

非常時にゲートが閉まっても、階段を上って堤防を越えることができる。下の写真は堤防の上からの眺め。

この日の日没は午後5時半頃。再び浄土ヶ浜へ向かう。車を第3駐車場に駐め、懐中電灯を頼りに浜まで歩いて降りる。灯りは営業時間が終わったレストハウスの周囲だけだ。星がきれいで、岩の上には北斗七星が「?型」に見えた。コンパクトデジカメで撮った下の写真ではほとんど分からないが…。

明けて3月11日(土)。朝は夜明けの浄土ヶ浜を歩き、午前は三陸鉄道に乗り、午後は再び(計4回目)浄土ヶ浜の周辺を歩く。

朝5時半にホテルを出発。第1駐車場から歩いて浜へ降りる。今回は乗らなかった、前年に就航した新しい遊覧船。もう明るいが、まだ陽は上っていない。船の上に見えているのは、西に沈もうとしている月だ。

この日の日昇時刻は午前6時の少し前。太陽は水平線からではなく、重茂(おもえ)半島から上る。東日本大震災から12年目の朝日が、水面のさざ波に映る。

6時。サイレンが鳴り響き、宮古市の防災訓練が始まった。「これは訓練です」「大地震が発生しました」「津波警報が発令されました」と防災無線から相次いで声が響き渡り、消防車が出動する。ホテルに戻ると、堤防のゲートは閉じられていた。

朝食後すぐに出発し、宮古駅の東駐車場に車を駐める(24時間まで500円)。三陸鉄道の久慈行き7:52発に乗る。宮古〜久慈間の1日フリー乗車券2,600円を使って往復。2年前には釜石から2度に分けて、宮古までと盛(大船渡)までを往復した。今回で三鉄の全線に乗車することになる。私は断じて乗り鉄ではないが、列車に乗っているのは大好きだ(たとえトンネルが多くても)。

9:28久慈着。昼食には三鉄久慈駅の名物うに弁当を食べてみたかったが、前日電話すると「もう予約分はいっぱいです。明日直接来てもらっても売り切れているかもしれません」とのこと。列車を降りてまっすぐ店に向かったが…「売り切れ」の紙が貼り出してあった。

1時間ほどすると、宮古に戻る列車が出る。残念だが海辺まで行く時間はない。久慈川沿いを歩いてアンバーホール(市民文化ホール)を目指す。

手前の円錐形に入り口があり、エレベーターで最上部の展望台まで登れる。そこから海を見た。また歩いて駅まで戻り、10:39発に乗る。朝早かった往路と違って、さすがに乗客が多い。12:14宮古着。駅に隣接した「さんてつ屋」で買い物をする。

いちどホテルに戻り、地震が起きた時刻の少し前に出発する。また浄土ヶ浜の第3駐車場に車を駐める。当初は、この時間に出る遊覧船に乗ろうかとも思った。しかし一人で歩き、一人で黙祷しようと考え直した。剛台展望台に登って、降りる。浄土ヶ浜大橋を渡る。橋の下は川ではなく、蛸の浜の集落だ。その突堤の向こうを、遊覧船が行くのが見えた。

橋の向こうに遊歩道の入口があり、そこから降りていく。ここは「みちのく潮風トレイル」のコースになっている。左へ行くと山道に入り、グリーンピア三陸みやこに至る。しかし今回は右へ進み、蛸の浜集落の墓地を抜ける。午後2時46分。宮古市の防災無線が黙祷を呼びかけ、1分間サイレンが鳴った。海に向かって目を閉じる。

車でも、ホテルの前から続く道を北上し、大橋の下を通って突堤のそばまで行くことができる(Googleマップのストリートビューでも見られる)。しかし歩いて行けば、岩の中のトンネルを抜けて浄土ヶ浜側に出る楽しみがある。実は蛸の浜もトンネルも、私は初めてだった。

上の写真は浄土ヶ浜側。レストハウス前に出るので、第3駐車場まで上って戻る。1時間ほどで回ることができた。

3月12日(日)。夜明けを待って港を歩く。

魚市場や道の駅の先に続く公園を歩き、戻って堤防の上への階段を上る。避難路は国道をまたいで渡り、漁協のビルへと続いていた。

この日は朝9時から、この港を会場に毛ガニまつりが開催される日だった。しかし私は、人が多い場所はあまり得意ではない。車も混むだろう。朝食を食べて7時半にチェックアウトし、そのまま宮古を離れた。三陸道から釜石道に入り、花巻で「宮沢賢治イーハトーブ館」に寄り、予約していた図書室で1時間ほどを過ごし、東北道を使って帰宅した。

耳から覚えるタッチタイピング

パソコンの入門授業を担当している大学生向けに、タッチタイピングの練習ページを作った。

http://www.md-sendai.com/tt/

「速く打てるようになる」以前に、「キーの位置を指で覚える」ことができない人向けである(ローマ字入力)。

タッチタイピングの練習

「タッチタイピングとは何か」から始まる解説動画が4本(各10分程度)と、「指の動きを指示する音声」が13本。

どうぞ自由にご活用ください。

21世紀の林竹二(続)

 昨年9月に「21世紀の林竹二(はやし たけじ)」という文章をアップした。
http://md-sendai.com/sendado/?p=497

 すると、ご研究を紹介させていただいた松本匡平さんが、これを読んでメールをくださった。うれしい限りである。
 お勤め先をネットで検索してみると、関西でも有数の進学校である中高一貫校で国語を教えておられるとのこと。林竹二の仕事が様々な形で受け継がれていることを知って、とても気持ちが明るくなった。

 先月、研究者インタビューの仕事で哲学の先生と社会学の先生を取材した。ネットでその下調べをしているうちに、川本隆史先生のお名前が何度か出てきた。「正義論」で知られるロールズの訳者としても有名な、日本の代表的な哲学者のお一人だ。
 この先生から私は、2003年に『教育の冒険 林竹二と宮城教育大学の1970年代』を出した時、メールをいただいたのである。たいへん高く評価していただき恐縮した。当時はまったく存じあげなかったが、慌てて感謝の返信を差し上げた。
 その時は東北大学にいらしたが、その後東京大学に移り、定年で退官なさった現在は国際基督教大学で教えておられる。

 東京大学では、たとえば2014年に教育学部で講じた「基礎教育概論」で、林竹二を取り上げておられた。
 シラバスの「授業の目的・概要」にはこうあった。

「西洋の教育の制度と思想を支えてきた複数の理念(理性、労働、自由、平等など)を社会倫理学および社会思想史の視座から点検していきたい。その助走路として、プラトン研究に出発し、歴史と現代に向き合いながら《教育の根底にあるもの》を探究し続けた人物、林竹二 (1906~85)の軌跡をたどることにする。」

 どんな授業なのか、残念ながら私の読解力ではほとんど分からないが、何となくうれしい(笑)。授業計画によれば、第2回のテーマは「哲学者・林竹二の冒険」。この回だけでもお話を聞いてみたかった。

 川本隆史先生は2006年に法務省の「法教育推進協議会」でお話をなさったそうで、その時のレジュメがネットに残っている。
https://www.moj.go.jp/content/000004283.pdf

 最後の「関連文献」一覧を見ると、先生が「月刊国語教育」(東京法令出版)という雑誌に、私の本を紹介してくださったらしいことが分かる。探して読もうとまでは思わないが、本当にありがたいことだ。

 どうせ私には分からないだろうと思って、川本隆史先生のお書きになったものは読んでいなかった。しかしこの機会に仙台市図書館で1冊借りてみた。
『共生から 双書・哲学塾』(2008年/岩波書店)
https://www.iwanami.co.jp/book/b260024.html

 一般市民向けに話し言葉で書かれているので、頑張って通読した。あくまで分からないなりにだが、面白く読むことができた。イメージだけで安易に語られがちな「共生」という言葉に、真摯に向き合う姿が感動的だ。生意気を言ってすみません(笑)。

 さて本家本元のわが母校、宮城教育大学はどうだろうと、久しぶりに公式サイトのページをめくってみた。すると現在の村松隆学長が、就任なさった2018年以来、入学式と学位記授与式で欠かさず林竹二を紹介してこられたことが分かった。
 そして何とこの2年間は、入学式の告示の中で私の本を紹介しておられたので腰を抜かした。

http://www.miyakyo-u.ac.jp/about/outline/message/message210406/index.html

http://www.miyakyo-u.ac.jp/about/outline/message/message200401/index.html

 今の1年生と2年生は、入学式で学長から私の名前を聞いている!
 「本学卒業生・大泉浩一君の著書「教育の冒険」」と述べておられるのだが、ありがたいだとか恐縮だとかを超えて、なぜか申し訳ない気持ちで一杯だ。

 私も60歳を過ぎた。残された人生を、自分なりに精一杯生きようと思う今日この頃である。

仙台スタジアムのロックンローラー

初出『Country Road 2003』

ベガルタ仙台・市民講演会(2004.1.24発行)

「プロのサッカー選手だった」
 っていう親父の話を、俺は小学校4年の夏休み明けまで信じていた。
 ホラだってことが分かったのは、同じクラスのマサが「休み中に調べたけど、お前の父ちゃんはプロのサッカー選手なんかじゃなかったぞ」って言ったのがきっかけだった。
「人の親父のことを夏休みの自由研究にするんじゃねえ」
 俺はそう言ってから殴ったと思うんだが、教室にいた他の奴らによれば、俺は何も言わずにいきなり殴ったらしい。まあどっちが正しいかなんてことはどうでもいい。とにかく俺はマサの顔を正面からぶん殴り、マサはぶっ飛んで、教室のどこかの角にぶつかってノビちまった。頭から血を流して。
 もちろん大騒ぎだ。
 学校に呼び出された親父に訳を話すと、親父の顔がみるみる青くなった。俺は目の前で人間の顔の色があんなに変わるのを初めて見たぞ。びっくりしたなー。親父はしばらく下を向いていたが、「それは、マサくんが、正しい…」と言ったっきり頭を抱えちまった。俺は呆然とした。おいおい、何てこったい。
 俺は学校から親父とお袋と、ついでに校長と一緒に、マサが入院した病院へ向かった。担任はマサに付き添って先に行っていた。
 幸いマサの怪我は大したことはなかった。いや、3針縫ったんだから大したことはあったんだが、出血がハデだったわりには傷は小さくて、レントゲンや脳波検査の結果も問題なかっていうことだ。さすがに俺もほっとしたが、この先のこと、つまり居並ぶ大人たちからさんざん絞られて、あの運動オンチのマサに謝ったり挙げ句の果てに握手させられたり仲直りの約束をさせられたりするのかと思うと激しくゲンナリした。
 だけどここからがドラマだったのよ。
 ベッドの上の、頭に包帯をぐるぐるに巻いたマサがうるうるになって、そして突然大声で泣き出したもんだから俺たちはびっくりした。泣きじゃくりながら、マサはでっかい声で繰り返した。「違うんだ、僕が悪いんだ」って。
 なだめて話を聞いてみると、マサは運動オンチのくせにサッカーオタクだった。俺が他の友達に「父ちゃんはプロのサッカー選手だった」って自慢してるのを聞いて、ワクワクして調べてみたらしい。ヒマな野郎だ。ところがいくら遡(さかのぼ)って調べてみても、俺と同じ名字のJリーガーなんていやしねえ。インターネットやら図書館やらで海外のクラブまで手を広げてみたが、結局見つからなかったって訳だ。
 奴は怒った。「同級生の父ちゃんがプロのサッカー選手だったと聞いて大喜びで調べてみたのに何だ!」っていうわけだ。俺に文句を言って、そして思いきり殴られた。
 だけど僕が勝手にやったことで、殴られたって仕方ない言い方をしたんだからって、マサの奴はそう言ってまた声を上げて泣いた。
 病室はシーンとして、みんなうなだれちまった。
 一番困っていたのは、もちろん俺の親父だった。しまいには大の大人のくせに、涙をボロボロ流してマサに謝ったんだ。こうして俺の親父はプロのサッカー選手じゃなくて、ただのバカだったことが明らかになった。そしてもちろんバカは遺伝する。どうしたわけか、つられて俺もその場でオイオイ泣いちまったんだ。全く恥ずかしい話さ。まあ、あの時はガキだったんだからしょうがないな。な、そうだろ。
 それにしても今になって思えば、小4まで親父の嘘を信じてたっていうのは、我ながらかなり思い込みの激しいタイプだな。サンタクロースの正体は保育所時代に見破っていたのによ。まあ親父も俺が小さい頃に何かのハズミで「サッカー選手だった」って言っちまって、それっきり引っ込みがつかなくなったんだろうけど、やっぱり信じ続けた俺の方もおかしい。
 ところでおかしなことに、あの日以来俺の親父とマサの親父は大の親友になっちまった。マサの親父もクレージーなベガルタのファンだったからだ。病院の廊下で話が盛り上がり、大きな声を出して看護師に注意された。
 マサのお袋さんは怒ったな。すげえ怒った。それは目の前で見てたから俺も覚えてる。マサの親父さんは少ししゅんとなったけど、またすぐに俺の親父と盛り上がってその晩飲みに行ったから、お袋さんから一週間口をきいてもらえなかったそうだ。
 そしてもちろん俺とマサも、それ以来親友になった。いや、悪友か? それとも腐れ縁か?
 あれからしばらくの間、俺はマサにサッカーを教えてやった。最初は驚きの連続だったな。だってマサは、思いきり蹴ってもボールが俺の半分も飛ばないんだぜ。まっすぐ前にも飛ばない。ヒョロヒョロのヨタヨタだ。
 だいたいフォームが変なんだよ。何であんな変な格好でボール蹴るんだよ。ボールに申し訳ないじゃないか。
 俺がキレてでかい声を出すと、何てったって前科一犯だからな、職員室の窓からハラハラして見てた先生がビューンって飛んで来る。
 俺が精一杯ニコニコして「何でもありません大丈夫です」って言ってるのに、マサの方はもう半泣きだからさ、先生は納得しない。目が完全に吊り上がっている。先生、あれはマサがボールをちゃんと蹴れなくて悔し泣きしてたんだってば。マサも自分でそう言ってるのに、ちっとも信用しないんだからなー。
 だけど今思い出しても、あの校庭はよかった。
 ほら、小学校の校庭って、今はほとんど芝生じゃん。昔はただの土だったんだよな。俺が子供の頃少しずつ芝生になってったんだけど、俺のいた小学校は早い方だったんだ。
 芝生って、寝転がっても裸足で走っても気持ちいいだろ。それがうれしくて、俺は小さい時から毎日のように小学校に行って、親父とボールを蹴っていた。そして小学校に入ると、毎朝門の前で学校が開くのを待って、ずーっとフットサルをやってた。
 校庭にはコートが6面とれた。クラスや地域の仲間で12のチームをつくり、毎日対戦してはその結果を学校の掲示板に書き出してたよ。「1部リーグ」と「2部リーグ」があって、その間を上がったり下がったりするんだ。女子だけのチームもあって、結構強かったな。あれは面白かった。
 マサも俺たちのチームに入れて、ときどきは出番をつくってやった。だけどあいつはやっぱり審判をやったり記録をつけてる方が楽しそうだったな。それからマネージメントっていうか、連絡とか調整とかもあいつに任せておくと安心だった。
 マサの頭には今でもあの時の傷跡が残ってて、その周りはすこーしハゲになっている。女と飲むたびに頭のハゲを見せて、子供の時に俺にやられたんだって自慢してるそうだ。実はあいつもバカだった。
 マサは大学に受かった。頭はいいからな。そして二十歳になるのを待って自分の会社をつくった。今はフットサルコートを中心にした小さいスポーツ施設を運営している。試合が終わった後、クラブハウスで自分たちのプレーのビデオを見ながらビールを飲んだりできるところが結構ウケているらしい。今じゃ学生ながらいっぱしの企業家っていうわけさ。

 俺の誕生日は、2001年の11月18日だ。
 その日親父は、京都の西京極総合運動公園にいた。伝説の、ベガルタが最終節で一度目のJ1昇格を決めた試合だ。
 お袋も熱狂的なサポーターで、ぎりぎりまで自分も京都に行く気でいたらしい。俺を生んですぐに親父の携帯に電話をし、その後俺に初乳をくれながら病院のテレビでベガルタを応援したというとんでもない女だ。試合終了の瞬間、あぶなく俺を病室の天井まで胴上げするところだったと、これは自分で言っていたから間違いない。
 親父とお袋は、当時大好きだったベガルタの選手の名前を俺につけた。だから昔っからのサポーターの中には、俺のことを「2代目」っていうアダ名で呼ぶ奴もいる。俺は別に気にしちゃあいないが。
 あとは俺のことを「ロック」って呼ぶサポーターも多いな。これは俺がインタビューで好きな音楽を聞かれると、必ず「ロック」って答えるからだ。
 俺はしゃべるのが苦手だから、マスコミの人たちは本当に困っちまうみたいだ。向うも商売だから「好きなアーティストは?」とか「お気に入りの曲は?」とか聞いてくるんだけど、俺はそれ以上答えない。「いや、その…」とか言ってにやにやしてると、そのうちほとんどの人は諦めてくれる。粘る人には「実はアーティストとか曲とか、名前覚えられないんっスよ」と笑って言うと許してくれる。
 本当を言えば俺だって、惚れてるミュージシャンや宝石みたいに思ってる曲はあるさ。だけど俺は、本当に大切なものはそう簡単に人に教えちゃいけないんじゃないかと思ってる。俺にとってはロックがそうなんだ。俺って、ちょっと古いかな。
 俺には、ガキの頃からなりたいものが二つあった。どっちも同じくらいに、絶対に強烈になりたかったものが。
 一つめはプロのサッカー選手。これはもちろんベガルタの選手じゃなくちゃいけない。何てったって両親に「他のチームは敵だ! 鬼だ! 悪魔だ!」って教えられて育ったんだ。他のチームのユニフォームを着ることなんてこれっぽっちも考えられなかった。
 俺は小学校入学前からベガルタのスクールに入って、ジュニアユース、ユースと進んでトップに上がった。今じゃベンチ入りの半分は俺みたいなユース出身だけど、昔はそうじゃなかったらしい。ベガルタの場合Jリーグが始まってからチームができたから、よそから実績のある選手が集まって来て、チームを育ててくれた時期が長かったそうだ。ベガルタが初めてユース出身の選手をよそにレンタルした時には、親父は感慨深そうだったな。
 俺は、小さい頃からとにかくよくベガルタの試合を見てた。時々はアウェイにも連れていってもらってたし、サテライトやユースもずいぶん見たな。
 自分がトップでプレーするようになった今、それはすごく生きてると思う。だから親父とお袋には感謝している。
 プレーする時、俺の体はフィールドにいるのに、アタマの中では自然にスタンドから見下ろす図が描けている。自分が次の瞬間どこにいて何をやらなくちゃいけないか、俺にはいつだって明々白々なんだ。
 前にテレビで将棋指しの人が、瞬間に何手も先まで何通りも読むって言ってたけど、あれ、よく分かるな。頭の中にいろんな動きのパターンがゴチャゴチャって入ってるんだけど、その瞬間、必要なやつだけがピーッて整列する感じ。俺はそのイメージの列の中を一直線に駆け抜けて、やるべきことをやるだけなんだ。
 ところが、俺自身の体がついて行けずに、やるべきことができない時がある。俺は自分に怒る。今この瞬間にやるべきことが、まるでイメージできないチームメートにも怒る。だから結構怒ってるな、試合中。
 だけど試合前、フィールドでの練習が始まる時には、俺はうれしくってゾクゾクする。サポーターの歓声が、ガンッて感じで俺にぶつかってくる。コールに応えて左手を上げる。そして、最初にボールを大きく蹴り上げた時に見る空。
 仙台スタジアムは俺にとって特別な場所だ。ピッチとスタンドがものすごく近いとか、声援が客席の屋根に反響してすごい迫力で聞こえるとか。そういうのも確かにある。だけど、何かそれだけじゃなくて、もともとあそこは俺たちにとって聖なる場所だっていう感じがするんだ。
 うまく説明できないけど——
 二万人で一つの神輿(みこし)を担ぐ祭りの、ど真ん中にいるような感じ。
 笛が鳴った瞬間、俺に何かが乗り移る。
 俺たち十一人は一匹の凶暴なケダモノと化して、一つの球を敵と奪い合う。あの快感。
 そして俺は、あんぐりと開いた敵の口にその球を放り込むんだ。
 俺が、そしてスタジアム全体が、シャウト! シャウト! シャウト!
 こうして俺は、ベガルタのプレイヤーになってガキの頃からの夢を叶えた。本当に幸せだ。
 だけどもう一つ、俺には絶対になりたいものがあった。
 それはベガルタのサポーターだ。
 そりゃまあ赤ん坊のときから仙台スタジアムには行ってたさ。だけどオトナだよ、あのカッコいいオトナのサポーターになりたかったんだ。
 この夢も、俺は絶対に叶える。
 引退した後もサッカーの世界で生きて行くことは、俺はとっくに諦めている。
 なんせしゃべるのがさっぱりだ。ダチや選手同士でしゃべる分にはまったく問題ないんだが、あらたまって何か言わなくちゃならないとなると頭の中が真っ白ケになっちまう。
 さっき、インタビューの話をしたけど、好きな音楽以外のことを聞かれても、俺の答えのほとんどは「はい」か「いえ」。もしくは単語1個だ。いや、たまに2個のことがあるな。「次、決めます」とかな。これじゃ解説とかそういうのはダメだろう? ダイジョブ? あ、そ、やっぱりダメ。
 指導者もムリだな。小学生相手のサッカースクールに引っ張り出されたことがあるけど、「頑張れ」「思い切って行け」「死ぬ気で行け」しか言えなかったもんな。
 何歳までプレーできるか分からないけど、俺の第二の人生は普通のサラリーマンがいい。マサは「その頃には俺の会社が大きくなってるから雇ってやるよ」って言っているが、あいつから給料もらうのは、ちょっと、なー。
 とにかく俺が次に就くのは、ベガルタの試合がある日に絶対に休める仕事だ。もちろんアウェイもだ。そんな都合のいい仕事があるのかよく分からないけど、親父をはじめ試合の時には必ずスタジアムにいるサポーターを見てると、どうにかなるんじゃないかって思える。
 少し年をとった俺は、スタンドで一番でかい声を出して歌う。そして気合いの足りねえ選手がいたら、思いっきりヤジる。
 もちろんその頃には結婚していて、女房子供も一緒だ。そうして俺は、子供に言ってやるつもりさ。「俺はプロのサッカー選手だったんだぞ」ってな。
 ついでに「実はじいちゃんもそうだったんだぞ」って言うことにしよう。子供が「本当?」て聞いたら、親父はたぶん「本当だ」って答えるな。バカだから。ああ、その日が来るのが今から楽しみだ。
 そう言えば、こないだサッカー協会の偉い人と二人っきりになった時、ヘンなこと言われたな。「学生時代、君のお父さんとは合宿で一緒になったことがある。未来をショクボウされていたが…」って。
 俺は黙っていた。なぜなら、もちろん「ショクボウ」という言葉の意味が分からなかったからだ。「食堂」の聞き間違いじゃねえよな、意味通じないし、とか思っていた。
 仕方ないから俺は次の言葉を待ってたけど、偉い人も俺の返事を待っていた。あれは気まずかった。
 あの時は部屋に他の人が入って来て「助かった」と思ったけど、あれはいったい何だったんだろうな。親父もプロじゃないけどサッカーやってたってことなのかな。
 部屋に帰ったらショクボウの意味を調べようと思ったんだけど、これがつい忘れちゃうんだよな。って言うか、本当は高校出る時捨てちゃったから、俺の部屋に辞書がないのが悪いんだ。
 本屋に行くヒマないし、だいたい言葉一個調べるのに辞書買うのも馬鹿みたいだ。コンビニに売ってりゃ買うんだけどなー。
 と言うわけで、この件はいまだに謎のままだ。何だよ、そんなに呆れるなよ。いや、調べる、調べるって、そのうち。そして親父にちゃんと聞いてみるからさ。そうだ、マサに電話で聞いてみよう。

 今は毎年優勝争いに絡んでいるベガルタだけど、2部から始めてJ1に上がった後も、一度はJ2に落ちたことがあるそうだ。俺は小さかったから、よく覚えていない。
 だけどベガルタには、それで応援をやめちまうような腰抜けのサポーターはいなかった。
 むしろみんな腰を入れ直した。
 それでも「あの時は、いろんなことがグラグラと揺らいで本当に苦しかった」と、親父とお袋がしゃべっているのを聞いたことがある。
 そう言えば俺が小さい時、親父とお袋がよく「戦術ダマシイ!」と叫んで喝を入れ合っていたけど、考えてみれば、あれはちょうどベガルタがJ2にいた時だったようだ。「戦術魂」というのがどういう意味なのか、俺にはよく分からない。だけどサポーターが試合に向けて根性を据える時の掛け声らしい。親父とお袋に意味を聞いてみたこともあったけど、二人とも「大きくなったら教えてやる」と言い続けてそれっきり、いまだに教えてくれない。あるいはただ忘れているだけかもしれないが。
 まあいいさ。さっきも言ったけど、誰にだって大切なものはあって、それは簡単に人に教えていいもんじゃないもんな。
 そんなJ2の時代も耐え、長い時間をかけて、ベガルタは少しずつ強いチームになって行った。
 そして今年、俺たちはJ1を制覇した。
 仙台スタジアムで優勝を決めた瞬間、俺は大声を上げて泣いちまった。小学校4年生のあの時以来だ。
 格別だな、リーグ王者になるっていうのは。
 俺は今年絶好調で得点王まで獲(と)っちまったけど、まったくサポーターのおかげだ。あの応援の!
 来年は、ちょっくら海外で出稼ぎもある。
 俺はゴールを決めて、きっとユニフォームを脱ぐ。みんな驚くだろうな。その下のシャツには、「ベガサポサイコー」って書いてあるんだから。
 さあ、いっちょうあの純金製のワールドカップトロフィーを日本に持って帰るとするか!

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ベガルタ仙台・市民講演会
「カントリーロード2003」販売開始のお知らせ
http://www.vegalta-sa.org/04/cr2003.htm

ベガルタ仙台
1994年 ブランメル仙台
1999年 Jリーグ2部参入
2002年〜 1部
2004年〜 2部
2010年〜 1部
2022年〜 2部