ゲルニカからゲルニカまで

090107madrid

*2009年1月14日執筆

1981年までゲルニカの存在を知らなかった。
美術への関心は薄かったし、自分の絵の才能は小学生のうちにあきらめていた。

ピカソの絵とスペインの街ゲルニカを知ったのは、絵がニューヨーク近代美術館からマドリッドのプラド美術館に移されることになった、という新聞記事によってだった。
1937年にパリで描かれアメリカに預けられていた壁画は、スペインに自由が戻るまでは、というピカソの遺志(1973年没)によって、フランコ将軍(1975年没)支配下の故国に返還されることはなかった。しかし、ついにそれが叶う日が来たというニュースだった。

大学生だった私は「カッコいいな」と思った。
絵そのものは、記事に添えられた小さな写真を見て「ピカソらしいぶっ飛び方だな」と感じただけだ。人気のある芸術家であるピカソの、独裁政権に対する姿勢をカッコいいと思ったのだ。
だからこの年、大学の自治会執行部から頼まれて反核をテーマにした立て看(ベニヤ板の看板)を描くことになったとき「よし、ゲルニカを模写しよう」と考えた。

立て看にはいろいろなサイズがあるが、縦が2m、横が4.5mくらいの、最も大きいものに描くことになった。本物は3.5m×7.8mあるから縮小することにはなるが、それでも大仕事だ。
そう、それはお金をもらってやる「仕事」だった。

その年、馬鹿な私は馬鹿な友人や後輩たちに声をかけて、広告研究会という馬鹿なサークルを作った。学校の教員になろうと思って入った大学だったが、やっぱりやめてメディアを作る仕事に就こうと思ったのだ。後輩たちに「チキンラーメンはおいしい。広告を作るからと言って日清にサンプルをもらいに行ってこい」と言うと、彼らは本当に一箱もらってきた。ラーメンは1週間もしないうちに全部食べてしまったが、広告はできなかった。

絵心のある友人に「特に活動もないし、ヒマだから立て看でも描こうぜ」と言うと、彼はトラペンアップというものを持ち出してきた。OHPで投影するためのフィルムを印刷物から作ることができるという優れもので(当時実物投影機はなかった)、大学の備品だから先生に願い出ると無料で使えた。
彼は当時人気のあったイラストレーターの作品を拡大して下絵を描き、アクリル絵の具やエアブラシを使って立て看に仕上げてみせた。見事な出来だった。

「よし、これで稼ごう。」
私は学内のサークルにチラシを配って注文を取ることにした。演奏会などのPRに立て看を使う部はあったが、われらが広告研究会のテクニックは図抜けていたので、安いながら注文がいくつか入った。そして8月が来る前に、自治会執行部から「内容は任せるから反核をテーマに1枚」というオーダーをもらったのだ。

立て看は一晩で描く。
天気の心配があるから屋内で作業する必要があるが、私たちにはアトリエなんか無かった。授業が終わった後の教室を使って、朝、授業が始まるまでに仕上げて屋外に掲示するのだ。私たちの大学は当時、特に届け出をすることなしに、そういうことが認められていた。果てしなく学生を信用する、無茶な大学だった。
例の絵心のある友人と、私の二人で描くことになった。自治会執行部から、女子が一人見に来た。

立て看のベニヤ板から、前に描いてあった模造紙をバリバリとはがす。立て看を寝せる。糊を水で溶いて新しい紙に塗り、二人で広げながら貼って行く。乾くのを待つ。
立て看を立てる。部屋の灯りを落とし、用意してあったゲルニカの絵をOHPで投影すると、3人から「おおっ」という声が漏れた。原画にした画集のサイズで見たときには感じなかった迫力に圧倒された。
ゲルニカはほぼモノクロの作品だ。原画通りに画面を区切り、何種類かのグレーと黒で塗りつぶして行けば模写できるはずだった。絵心の無い私でも、これなら役に立つ。二人で手分けをして、映し出された輪郭線を鉛筆でひたすらなぞった。

一息つくたびにインスタントコーヒーを飲み、カップラーメンをすすった。そうして私たちは、一晩中ゲルニカを描き続けた。描くうちに、「これは凄い絵だ」ということが私にも分かった。
何が「凄い」のかは分からなかった。ただ、ピカソの、死んだ人々の、ゲルニカの街を爆撃した者たちの、人間としてのエネルギーが生で感じられるような気がした。
「これは凄い絵だな」と言うと、二人も同意した。

アクリル絵の具で塗りつぶしていくたびに、ゲルニカが徐々に姿を現す。
夜明けが近づく。時間との闘いになり、私たちは無口になった。徹夜だからもちろん眠い。しかし若さと興奮で乗り切った。

最後に下の空白に「HIROSHIMA,NAGASAKI 1945→1982」と、文字を入れて完成させた。大学の正門から見える真正面の芝生に運び出し、樹に立てかけて太い針金で固定した。
教室に戻って大急ぎで後片付けを済ませ、朝、学生たちが乗ってきたバスに乗って山の上の大学から降りた。一眠りしただけのつもりが、起きたら夕方になっていた。

私は思った。「いつかスペインにゲルニカを見に行こう。」
私はこの年21歳だった。まだ若く、そのうちきっと叶うだろうという自分の考えを疑わなかった。
そして私は48歳になった。

 

海外に行く機会は一度だけあった。しかし26歳のときに行ったのは中国だった。
高校時代から興味があった歴史の舞台を見たかったのと、父方の祖父と子どもの頃の父が暮らしていたことのある東北地方に足を踏み入れたかったのだ。1ヶ月の旅でそれを果たした。

しかしこの旅行に出るために、私は勤めを辞めた。その後は不安定きわまりないフリーランスとして生活に追われ、カネも無ければ長い休みも取れない状態が続いた。やがて子どもが生まれ、妻が病を得て、海外旅行は夢のまた夢になった。
パスポートは押し入れの奥で、ひっそりと期限が切れた。

いつかはスペインに、ということを忘れたわけではなかった。それどころかサントリーウィスキーのTVCMを見てガウディを知り、「これはバルセロナにも行かなければ」と思った。しかしどうにもならなかった。

ピカソの作品は見た。日本で。
最初はゲルニカの立て看を描いた翌年(1982年)の秋に宮城県美術館に来た「ピカソ陶芸展」だった。美術に疎い私は、それまでピカソが絵画以外も手がけていたことさえ知らなかった。しかし私にとってこの展覧会は、宮城県美術館で開かれた特別展の中でも、特に気に入ったものになった。
前年に宮城県美術館が開館したおかげで、私にも少しずつ美術展を見る習慣ができつつあった。

こうして私はピカソが好きな、地方在住の平凡な美術ファンになった。
ピカソ展が来ると聞いて、東京まで足を伸ばしたこともあった。晩年の小さな版画ばかりを集めた展覧会では、辟易(へきえき)という言葉の意味を知った。それでも私はピカソが好きだったし、いつかはゲルニカを見にスペインへ、という気持ちは忘れなかった。

1992年、ゲルニカはプラド美術館から、同じマドリッドのソフィア王妃芸術センターへと移された。さらに時は流れ、21世紀になった。
立て看を描いてから、四半世紀が過ぎた。

ゲルニカのどこが「凄い」のか。あのとき感じた「凄み」の正体は何だったのか。
私にはそれを言葉にする能力はなかったが、いくつか本は読んでみた。美術評論はどれも難解で、しかもむやみに長く、私の読解力と感性を嘲笑(あざわら)って足蹴にした。
しかし宮下誠氏の『ゲルニカ~ピカソが描いた不安と予感』(光文社新書/2008年)は最後まで読めた。そして理解できた。
本にも力があると思うが、著者が自分と同世代だということもあるかもしれない。サルトルを引いて実存的不安にも言及しているが、これも学生時代に(翻訳だが)親しんだ思考パターンで苦にならなかった。

2008年。
東京で久しぶりに大規模なピカソ展が開催された。パリのピカソ美術館が改修に入るにあたって行われた、世界的な巡回展の一環だった。私は一人高速バスで東京に向かい、10月12日、国立新美術館とサントリー美術館を巡った。
私にとって、ピカソはやはり楽しかった。多くの作品は笑いをこらえながら見た。熱心に説明文のプレートを読んでばかりいる人たちが、不思議でならなかった。
展示を見終わって国立新美術館の中をぶらついている時、携帯が鳴った。旅行代理店のH.I.S.からだった。「大泉さん、すみません。バルセロナからマドリッドに行く飛行機の時刻が、また変更になりました」「いいですよ。お任せします」

そうだ。
私は中国旅行以来、22年ぶりに『地球の歩き方』を買い、22年ぶりにH.I.S.の店に入ったのだ。私が「本当は若いうちに行きたかったんだ」と言うと、H.I.S.の若い男性担当者は「そのお年で航空券と宿だけ取ってヨーロッパに行こうというんですから、気持ちがお若いですよ」と言った。
12月27日、私はパリ、バルセロナ、マドリッドを巡る2週間の旅に出た。

 

パリ。
オルセーでは「草上の昼食(マネ)―ピカソと巨匠たち」展が、ルーブルでは「ピカソ‐ドラクロワ」展が開催されていて、ざっと見ることができた。しかしいずれの美術館もが初めての身にとっては、代表的な所蔵品を駆け足で巡る方を優先せざるを得なかった。
せっかく開催中だったグラン・パレの「ピカソと巨匠たち」も見られなかったし、ピカソ美術館も行けなかった。

年が明けて2009年1月4日。
バルセロナのピカソ美術館を訪れた。10代の作品のコレクションで知られ、「初めての聖体拝領」「山岳風景」「科学と慈悲」などを見ることができた。

1月7日、マドリッドのソフィア王妃芸術センター。
午前9時45分。開館15分前に到着したが、一番乗りではなく二人目だった。
開館する。荷物のX線検査を受ける。チケット売場を通過する。この時点で前には誰もいない。
右のエレベーターで2階へ。動悸が高まる。ゲルニカは一番奥だ。早足で一目散にその部屋を目指す私を、係員たちがぎょっとした表情で見る。
出た、牛の頭だ。絵の左端が、部屋の出入り口から見えた。

(中略)

私は30分ちょっとの間、ゲルニカを見続けた。想像以上に大きかった。
ガラスも手すりもない。近づき過ぎると警告のブザーが鳴るが、私は2回鳴らした。
その間、見に来た人は10人足らず。ほぼ独占することができた。
やはりゲルニカは「凄い」絵だった。

隣室にはゲルニカのための多数のスケッチが、制作過程を追ったドラ・マールの有名な写真が展示されている。しかし私には、1937年パリ万博のスペインパビリオンの模型がひときわ興味深かった。作品は1階にあり、絵の枠の左下にはパブロ・ピカソ、右下にはゲルニカと入っていたのだ。

この美術館が気に入った私は、軽食をとったりブックショップを覗いたりして、結局5時間近くをそこで過ごした。午後2時半、最後にもう一度ゲルニカを見て、私はソフィア王妃芸術センターを後にした。
こうして立て看への模写に始まった、私の27年に及ぶゲルニカの旅は終った。自分が美術に関心を持った最初のきっかけに対面し、気持ちの整理をつけることができた気分だった。

ソフィア王妃芸術センターは子どもたちのためのワークショップに力を入れているらしい。10歳から15歳くらいの10人ほどのグループが、ミロの大きな絵の前で模写に励んでいた。皆、床に寝そべって。
私はこうした教育を受けることができなかった。あの子どもたちのようには美術と出会わなかったし、作品と親しむことができるようにはならなかった。
しかし悔いがあるわけではない。私は私に与えられたかたちで、美術に、ゲルニカに出会い、そしてオリジナルに対面することができた。これは僥倖(ぎょうこう)だと思っている。

ようやく句点を打った旅行者は、慌ただしく次の美術館へと向かった。