林竹二と宮城教育大学の1970年代

プロローグ

 東北地方の一〇〇万人都市、宮城県仙台市の市街地は、海岸線からかなり入った所にその中心を持っている。JR東北本線を地図で辿れば、仙台駅の辺りで大きく西寄りに迂回していることがはっきりと分かるだろう。これは、関ヶ原の戦いによって天下の趨勢が決したにもかかわらず、伊達政宗《だてまさむね》が平地ではなく山上に城を築き、そのふもとに城下町を開いたためだ。
 仙台駅の西口を出ると、目の前には幅五十メートルの大通りがまっすぐに延びている。しかし初めて仙台を訪れた人は、その先わずか二キロのところまで迫る小高い山の連なりに気づくと、立ち並ぶ高層ビルとのコントラストにあらためて目を奪われるはずだ。
 仙台城のあった標高一四〇メートルほどの山に限らず、そこから北西へと連なる山並一帯は、この地では「青葉山」と呼ばれている。そして教育学部だけの国立単科大学、宮城教育大学は、そのほぼ中心部にある。
 一九七九(昭和五四)年一月二十五日、土曜日の朝。宮城教育大学の上には、仙台特有の澄みきった冬の青空が広がっていた。

 二号館と呼ばれる建物の、学内でもっとも大きな階段教室の真ん中近くの席で、学生服を着た小太りの男子高校生Kが、ひどく落ち着かないようすで自分のカバンの中をまさぐっていた。これから入学試験が始まるというのに、あろうことか筆入れが見当たらないのだ。
 しまいには鞄の中身をすべて出して机の上に広げてみた。しかし無駄だった。
 Kは几帳面を通り越して、どちらかと言えば神経質な性格だった。おそらく昨夜、持ち物を確かめるために中身を何度もカバンに出し入れしたあげく、かんじんの筆入れを机の上に置き忘れてきたのだろう。Kは中身を再び鞄に詰め直すと、目をつぶって大きく息を吐いた。
 気を落ち着けようとして、Kは教室を見渡した。しかし居心地の悪さを覚えただけだった。
 そこにはKを含めて一六三人の受験生がいたが、その七割がたは女子が占めていた。仙台市内の男子校で三年間を過ごしたKにとっては、女子校の教室に紛れ込んでしまったような奇妙な感覚だった。
 今日は推薦入学のための本試験だった。Kは「推薦二次で行う表現力テストは準備不要、受験勉強は無意味」という大学の説明を真に受けていた。だからこのなかに、前年までの試験内容を調べて、今日のために踊りや太鼓の練習をしてきた受験生が含まれているとは夢にも思っていなかった。
 大学側による説明が始まり、小さな紙片が配られた。今日の表現力テストには踊りと朗読の「身体表現」と、絵画と作文の「造型表現」の二つがあるが、どちらか好きな方を選べというのだ。午前中が試験で、午後がグループ面接という予定だった。
 さっきからのKのようすを見かねたのだろう。隣の席の男子受験生が「きみ鉛筆忘れたんじゃろ。貸そうか」と言った。Kは感謝して、借りた鉛筆で「身体表現」に丸をつけると鉛筆を返した。
「ありがとう。おれ仙台。君はどっから?」
「イズミ」
 泉?
 泉市は仙台のすぐ北隣の町だったが(一九八八年に仙台市に合併・現在の仙台市泉区)、その受験生の言葉はあきらかに西日本のものだった。
「どこのイズミ?」
「鹿児島県」
 そうか鹿児島県の出水市か、とKは思った。
 このときKはまだ知らなかったが、宮城教育大学は宮城県の教員を計画的に供給するためにつくられた大学でありながら、日本中から学生があつまる「全国区の大学」だった。四年前まで学長を務めていた林竹二の時代にすすめられた大学改革が、マスコミで繰り返し大きく取り上げられたためだった。
 これから受ける独特の推薦入学試験も、その改革によるものだった。ユニークな表現力テストを行なっていたため、あたかも大学入試シーズンの風物詩のように、テレビの全国ニュースが、毎年そのようすを報じていた。
「きみはどっちを受けるんじゃ」
「身体表現」
「そうか、おれは造型表現じゃ」
 ちょっと間をおいて、隣の受験生は言った。
「きみ、もしかして造型表現を受けたいんじゃないか。鉛筆なら一日貸すぞ」
「いや、いいんだ。ありがとう」
 できたばかりの友人に、Kは嘘をついた。
 小さな頃から、運動と名のつくものはいっさい苦手だった。リズム感もなく、学校の科目に体育と音楽がなければなあと思いながら、この十二年間学校生活を送ってきたのだ。だからこの、自分の人生を左右するかもしれない場面で、鉛筆を忘れたからといって身体表現を選ぼうというのは明らかに無謀だった。
 しかしKは、一年ほど前から「正しいことと面白いことがあったら面白いことの方を選ぼう」と決めていた。「鉛筆を忘れたから大学入試で踊りを踊った」というのは、何年経っても楽しい思い出になりそうだった。そして詳しくは後に述べるが、Kには「どうせ最後には宮城教育大学は自分を合格させる」という確信があった。
 Kは「身体表現」を選んだ他の受験生たちといっしょに、大学の体育館へと移動した。

 試験会場には何人かの教官が待ち受けていたが、中森孜郎《なかもりしろう》と名乗る五十がらみの、体格のしっかりした、眠そうな二重まぶたをもつ教授が代表して話し始めた。
「今日の試験は、皆さんが、何ができるかを見るものではありません。皆さんの学ぶ力を見せていただきます」
 Kは思った。
「学ぶ力? そんなものは試験じゃ測れないぞ。だいたいそれじゃ、落ちた人間には学ぶ力がないっていうことかい」
 もちろん口には出さなかった。
 試験は準備運動、踊り、詩の朗読、の順番で行われると説明された。「身体表現」なのに詩の朗読があるというのがKには謎だった。しかしとにかく、他の受験生と二人ひと組になって指示通りに準備運動を始めた。
 それは彼が知っている、ラジオ体操やそのバリエーションのような準備運動とはまるで違っていた。一言でいえば、力を入れることよりも力を抜くことに重点をおいた体操だったのだ。
 パートナーと背中合わせになって肘を組み合い、前屈して相手を背中に乗せる運動では、上になった人間が力を抜いて体を伸ばしきることが求められた。あちこちからうめき声があがった。それは自分の体のあまりの固さにとまどった受験生たちの、半ば笑いを含んだものだった。やや騒然となりながらも、試験会場の張り詰めた空気がゆるんだ。
 Kもそれを楽しんでいた。そこに教官の一人がにこやかに近づいてきて、足の位置についてアドバイスをした。ところがKは、返事をするどころか「よけいなお世話だ」という目でにらみつけてしまった。面白くて、試験中だということをすっかり忘れていたのだ。「しまった」と思ったが、もう遅かった。
 受験生は皆、大きく番号の入ったゼッケンをつけさせられていた。その教官は憮然とした表情で、採点表になにごとかを書き込むと去っていってしまった。
 しかしKは思っていた。
「だいじょうぶだ。おれは受かる」
 踊りの課題が、いわゆるふつうのダンスではなく民謡の斎太郎節《さいたらぶし》だったこともKを驚かせた。ラジカセの音が体育館に響き渡り、手本として中森教授が力強く踊り始めた。

 松島の サーヨー 瑞厳寺ほどの
 寺もない トエー
 アレワエーエエー エイト
 ソーォリャー大漁だァエー

 Kは大学教授というものを間近で見たのは生まれて初めてだったが、それが額に汗を浮かべて懸命に斎太郎節を踊っている姿に、すっかり度胆を抜かれてしまった。
 大学に入るのに、なぜ民謡を踊らなければならないのか。
 などと考えている場合ではなかった。とにかく教えられたふりつけを頭の中で分解して、手足をその通りに動かしてみた。
 櫓《ろ》をこぐしぐさをしながら、少しずつ歩を進めていく…。
 しかし中森教授の手本とはまるで違って、ぎくしゃくしたものにしかなっていないことは自分でよく分かった。
 あせったKは、しばしば練習を中断して周囲の受験生を見回してみた。みんな苦労しているようだった。「これで本当に差がつくのか」と思ったが、それ以上のことを考えている余裕はなかった。今は自分の動きを踊りに見せかけることに精一杯だった。
 練習の結果、動きをいくら足し算しても、それは踊りにはならないのだということが納得された。しかしそんなことが分かっても、いまは何の役にも立たなかった。Kはロボットのように踊って試験を終えた。一人ずつではなく、数人ずつが列をつくって踊ったことだけが救いだった。
 Kはさすがにだんだん自信を失ってきた。
 最後の詩の朗読は、体を動かすことに比べれば、よっぽど気が楽だった。課題の詩も、田舎の学校に春がきた、というようなのどかなものだった。これなら元気よく明るくさえ読んでおけば、合格点には達するだろう。
 ただその詩の最後の一行が、「先生、つばめが来ました!」という生徒のセリフになっていることが、Kには気になった。これを試験教官に向かって、身ぶりをつけて叫べばアピールできるのではないかと、一瞬考えてしまったのだ。
 しかしすぐに、そんなことを考えた自分を恥じた。
「そんなことをして目立とうっていうのは反則だよな。うん、絶対にそうだ」
 ところがあと数人でKの順番になるというとき、一人の女子受験生がそれをやってしまった。それを見たKは、一気にやる気を失った。わざと抑揚をつけずに、淡々と自分の朗読を終えた。
「かまうもんか。どうせ最後には合格するんだ」
 もう、なかばヤケになっていた。

 昼休み、Kは鉛筆を貸してくれた受験生と再会した。Kたちは一緒に昼食をとることに決め、その受験生に付き添って来ているという姉と落ち合った。
「へえ、もう友だちができたんだ。あなたはどこから?」
「仙台です」
「センダイ? 近いじゃない!」
 Kたち二人は顔を見合わせ、それから声をそろえて言った。
「お姉さん、それは鹿児島県の川内《せんだい》でしょう?」
 昼食を終えると、Kたちは笑顔で別れた。午後にはグループ面接が行われ、入学試験は終った。

 一月三十一日、Kは推薦入試の結果の通知を受け取った。
「あなたは共通一次試験ならびに二次試験を免除されないことになりました」というもって回った言い方だったが、要するに不合格だった。
 ところがKはといえば、いっこうに平気だった。
「まだ一般入試がある」
 しかしKは、ここ一年以上大学入試のための勉強というものをしていなかった。共通一次試験でも、半分も点のとれない科目がごろごろあった。
 Kの自信の根拠は、ただ「自分は他の誰よりも小学校の教員になりたいと思っている。だから宮城教育大学は自分をとるはずだ」というものだった。それはまるで「ぼくは世界の誰よりも君を愛している。だから君もぼくを好きになるべきだ」というのと同じ、ただの一方的な勘違いに過ぎなかったのだが。
 二次試験は、三月四日に行われた。
 宮城教育大学の二次試験には、気前よく七つもメニューが用意されていた。小学校教員養成課程の志望者は、どれでも自分の好きなものを選んで受けてよいという。Kは、国語と英語を合わせたような、「人文系」という、小論文スタイルの試験を選んで受験した。こんどは鉛筆を忘れなかった。
 その第一問は、若者のマナーの悪さを指摘する新聞のコラムが題材だった。これを六百字以内で批判せよという。
「面白い問題出すなあ」
 Kはうれしくなった。
 この大学が、少しずつ好きになりつつあった。張り切って原稿を書き上げると、試験時間はまだ半分近くも残っていた。
 合格発表は三月二十日。
 宮城教育大学は、この勘違い高校生を本当に合格させてしまった。

教育の冒険

*以上は2013年に電子書籍で発行された『教育の冒険 林竹二と宮城教育大学の一九七〇年代』のプロローグ部分です。
https://www.amazon.co.jp/dp/B00C3ME856
 紙版の書籍は2003年に、同タイトルで(有)本の森より刊行されました。

研究者100人に聞きました

「まなびのめ」という季刊のフリーペーパー+Webサイトで、研究者インタビューを行って14年になる。

http://manabinome.com/

創刊準備号が2007年12月の発行だった。先月発行の53号まで毎号ほぼお二方ずつ、大学にうかがってお話をお聞きしてきた。

東京での取材になったお一人を除く全員分を担当した。数えたら107名にもなっていて、博物館の職員など4名が含まれているが、それ以外は仙台・宮城の大学の研究者だ。

◇テーマ/研究者一覧

http://manabinome.com/interview-2/theme_list

インタビューは、通常1時間半だ。できるだけ予習はして行くものの、お話は思わぬ展開を見せることが多い。場が盛り上がるのは良いのだが、取材終了後にあらためて専門的な本やサイトで確認した上で原稿を書くことも少なくない。

数えたわけではないが、いわゆる文系と理系の割合は半々くらいだろうか。取材のたびに様々な分野を勉強させていただき、本当に楽しくありがたく思っている。

そして最新号では、東北大学を退官後、東北文化学園大学で感染症の研究を続けている渡辺彰先生にお話をうかがった。東北文化学園大学は、私が非常勤講師として文章表現や情報リテラシーの授業を担当している大学である。

発行元は笹氣出版印刷という仙台では中堅どころの印刷会社で、他にも色々なお仕事をいただいてきた。この「まなびのめ」は同社の社会貢献事業であり、私の報酬を含む全てを負担している。

そろそろ他のライターを探すべき時期ではないかと思うが、当面その予定はないとのことだ。誰よりもまず私自身が学びの喜びを味わいながら、今しばらくは担当させていただくことにしよう。

三陸に海を見に行く 08 北山崎

シリーズ最終回。最初から読みたい方はこちらから

宮古からさらに車で北上して、田野畑村にある北山崎へ行く。照明のないトンネルを久しぶりに走った。停電だそうだ。しかし抜けた先には、よく整備された観光地があった。遊歩道を歩く。

北山崎
北山崎

最後にぐっと内陸に入って、海ではなく地底湖へ。龍泉洞。しりあがり寿のマンガ「青い夜」は傑作だ。

龍泉洞

地底湖の水温は10℃ほどだそうで、思っていたよりも冷たくない。しかしのぞき込むための柵に、救命用の浮き輪がついているのがちょっと怖い。

龍泉洞

私は岩手県宮古市の出身だ。小学校2年生までしかいなかったが、学校は海のすぐそばで、体育の授業で海水浴をした。地震が起きると全校で山へ逃げ、遠足のために買ってあったお菓子を食べた。今思えば先生方が、お菓子の箱を持って走ったわけだ。遠足は中止になり、小学校はのちに山の上に移転した。

ライターとして、東北各地の観光パンフレットやウェブサイトの広告コピーを書いてきた。東日本大震災の数カ月後にも、宮城県のある町に、津波で生徒を失った学校長から支援に対する感謝のコメントと、ぜひ町を見に来てくださいというメッセージをもらいに行った。編集者としてはある宗派の、被災した多くの寺の記録をまとめた本を作った。

私は震災遺構を見たり被災者の報道に触れることが、今でも苦しい。しかし海が好きだし、海を見ると気持ちが落ち着く。これからも、三陸に海を見に行くつもりだ。

三陸に海を見に行く 07 宮古(2)

浄土ヶ浜の北に突き出すのは姉ヶ崎。「休暇村陸中宮古」のホテルとキャンプ場がある。ウォーキングコースが設定されていて、40分で一周するという「自然の小径(こみち)」を歩いた。写真は「ウミネコ展望所」。

姉ヶ崎

アップダウンはあるものの「気軽に歩ける散歩道」というキャッチフレーズの通りだ。ところが現地の案内地図には、ウェブサイトのルートにはなかった「潮吹穴」に行けるとある。海面は穏やかで潮が吹き上がるようすは見られなかったが、急坂を下りてみた。なぜか休憩所が破壊されていてちょっと怖い。

姉ヶ崎

眺めはたいへん良い。しかし戻りの登りはきつい。

姉ヶ崎

さらに北へ。東日本大震災による津波遺構の「たろう観光ホテル」。正面には高い防潮堤があって、今は海は見えない。

田老

次が最後。北山崎プラスアルファ。

三陸に海を見に行く 06 宮古(1)

宮古の浄土ヶ浜は、三陸海岸の白眉である。昼。

浄土ヶ浜
浄土ヶ浜

明け方。逆光になる。

浄土ヶ浜

夕方。岩が正面から日を浴びる。

浄土ヶ浜

遊覧船乗り場やレストハウスを含めて、浜のすぐそばに駐車場はない。高いところに駐めて、例えば第1駐車場に隣接するビジターセンター内のエレベーターや階段、もしくは坂道を下りる。

逆に第1駐車場から遊歩道を上ると、いくつかの展望台がある。急坂もあるので履物は注意が必要だ。写真は「館ヶ崎展望所」に立つ塔で、上りきったところに現れるとちょっとびっくりする。

みやこ浄土ヶ浜遊覧船」は1962年に運航を開始し、2021年1月11日に営業を終えた。私が乗ったのは昨年(2020年)の9月。宮古市は来年、新たな船で遊覧船を復活させたいとしている。

浄土ヶ浜
浄土ヶ浜

第2駐車場から、林の中をまっすぐに下りて浜へ行く道は早い。そしてその駐車場に隣接する「浄土ヶ浜パークホテル」に泊まれば、レストランや大浴場から浜を見下ろせるし、早朝や夕方の散策も楽しめる。ランチだけでもおすすめだ。

浄土ヶ浜

海の見える宿としては、宮古港に面したビジネス系の「ホテル アートシティ」も良い。最上階に大浴場がある。すぐ隣がコンビニで、道の駅も近い。ただし電話でしか予約できず、「作業員の方でずっと満室です」と言われることがある。部屋から見える朝焼けがすごかった。

浄土ヶ浜

浄土ヶ浜だけで1ページになってしまった。次は北へ進んで宮古(2)。