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2015年11月某日。岩手県花巻市。

花巻市に編入された旧大迫町には、宮澤賢治の童話「猫の事務所」のモデルと言われる建物が復元されている。

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かつては稗貫郡役所。現在は花巻市大迫交流活性化センター

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このあんどんだけでなく人間サイズの猫の人形もいて、一緒に写真が撮れる。

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早池峰ダム湖畔の道の駅「はやちね」にて。モニュメントのモチーフは同じく「どんぐりと山猫」だ。

宮澤賢治ゆかりの地はかなり訪ねているが、この2カ所は初めてだった。

この日は一関市の温泉に宿泊した。

 

三本木ギャザリング

*初出:2003年『Kappo 仙台闊歩』

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私は頭を使うのが大好きだ。

だけど頭とは、どこからどこまでを指すのだろう。

この点について、私とお母さんの意見には相違がある。

お母さんの説では、額は顔の一部であって頭ではない。

「だからお願い、ヘディングはやめて」

と言う。

だけど私の見解によれば、首から上はぜんぶ頭だ。

どこに当たっても、ゴールに入りさえすれば、実に喜ばしい。

高くていいクロスが来る時、私にはピッとわかる。

幸福の予感に包まれ、ひねりを加えながら頭でシュートを放つ瞬間。

私はサッカーが好きだった。

 

もちろん私だって顔は大切だ。

敵のフリーキックを顔面でディフェンスしてしまい、盛大に鼻血が出た時は悲しかった。

サッカーをやめろと言われるのが怖くて、試合が終わっても、腫れがひくまで家には帰れなかった。

ファミレスの一番奥の席で、顔に濡れタオルをかけたまま、仰向けに寝転がっていた。

帰りが11時を過ぎて、やっぱり怒られた。

私はサッカーが好きだった。

 

傷(いた)むのは顔だけじゃあない。

当然、足が一番傷む。

あっちこっちに痣(あざ)ができ、爪は紫色だ。

スカートやサンダルが楽しめないのは、ちょっと悲しい。

ウチは女子高で、制服はスカートでソックスは短い。

夏に、どうしても水着を着なければならない時なんか最悪だ。

だけど、不思議だ。

ユニフォームのパンツ姿が気になったことは一度もない。

これは、長いソックスのせいだけじゃないと思うな。

私はサッカーが好きだった。

 

お答えいたします。

サッカーというのは球を蹴り合うスポーツで、脚を蹴り合うものではありません。

しかしスライディングタックルは、合法とされています。

ボールを蹴るとほめられ、相手の足を蹴るとファウルになり、無理な位置からそれをするとイエローカードになり、意図的と認められるとレッドカードで退場になります。

それぞれは、0コンマ何秒かの差で起こるに過ぎない、という意見もございます。

また、ボールをもらったり奪ったりに適したポジションとか、コーナーキックのボールをシュートしたり阻止したりに適したポジションというのはおおむね決まっております。

敵味方に別れていても、「どうしてもこの場所にいたい」という気持ちは一致してしまいます。

以上、なぜあんなに激しく、しょっちゅう体当たりをし合わなければならないのか、というご質問にお答えしました。

お母さんは、分かりましたか?

私はサッカーが好きだった。

 

好きな人は、いた。

中学の時。

だけどあまりに忙しすぎた。

平日は男子サッカー部に混じって練習。

肩書きはマネージャーだったけど、私は今でもチームで一番得点のセンスがあったと思っている。

土日はバスを乗り継いで、遠くにある女子のクラブに参加。

私みたいに小学校までスポ少でやっていて、サッカーを諦められなかった中学生と、成人世代とが一緒に練習し、大会を戦った。

よく帰りのバスの中で寝てしまい、その度に乗り過ごした分を歩いて帰った。

高校生になれば女子サッカー部がある。

女子サッカー部のある高校に絶対に入る。

そう思って自分を励ました。

中学時代を思い出すと、なんか、三年間ずっと歯を食いしばっていた気がする。

二年の終り頃から、サッカー部の男子にどんどん身長で追い越されて行って、ヘディングで競り負けるようになった時も、悔しくて何度も泣いた。

好きな人は、いた。

中学の時。

だけど、

私はサッカーが好きだった。

 

ウチの高校はめっぽう強い。

日本で何番目かに強いと思う。

しかし困ったことに、宮城には他にも「日本で何番目かに強い」高校がいくつかある。

全国大会に行くまでが大変なのだ。

私たちは練習した。

戦った。

勝った。

負けた。

そして、また練習した。

それを繰り返すうちに、私は大変なことに気がついた。

それは、物事には始めがあれば、必ず終りがあるということだった。

私たちは三年生になり、気がつけば次の大会で引退しなければならなかった。

私はサッカーを続けたかった。

もちろん卒業後も、クラブチームに戻って続けることはできる。

でも本当は、私はまだ、もっともっと高いところを、日本で一番高いところや、世界で一番高いところを目指してみたい。

でも駄目だろうと思う。

高校三年間、ウチのチームは全国大会にはほとんど出場できなかった。

私の名は宮城では知られていても、他県のLリーグのチームから話があることは考えられない。

宮城にLのチームがあったらなあ。

そうしたら、私にもチャンスがあったかもしれない。

だけど、ない。

今度の最後の大会でも、私たちは宮城県で一番になることはできないだろう。

いや、言い訳はやめよう。

今はもう、引退を一日でも先に伸ばすために必死で戦うだけだ。

最後の最後の最後の瞬間まで。

私はサッカーが好きだった。

 

後半45分です。ロスタイム。私は今日得点しました。だけど相手チームの得点の方が1点だけ多い。お願いです。せめて延長戦まで私にプレーをさせてください。かなうなら、勝って、さらに全国大会でも。私はまだ大丈夫です。全然疲れてなんかいません。一度足がつりそうになったけど、もう治りました。私は永遠に走り続けられるんです。本当です。だから会場の時計を全部止めてください。そのクロス。最後のチャンスだ。私は無理なポジションから、ヘディングシュートを、放つ。バーにはじかれたボールが、ラインの外へ。私の背中で、試合終了を告げる長いホイッスルが鳴った。私は振り向いて、審判を見た。その笛を奪い取ろうとして手を伸ばした。だけど審判は、巧みに身をかわし、私を振り切って行ってしまう。私はグラウンドに倒れ込んだ。グラウンドに突っ伏したまま、泣いた。大きな声で。涙は止まらなかった。人間ってこんなに涙が出るものなのかって思うくらい泣いた。私の涙で、グラウンド中が水浸しになった。もっともっと泣いて、どんどん溢れ出して、やがて世界中が水浸しになった。今度はグラウンドだけ水が引いて、まるでノアの方舟のように、水没した地球の上にぽっかりと浮いた。再びホイッスルが鳴って、私たちはゲームを始めた。永遠のゲームを。

それから私は、チームメートたちに抱きかかえられて挨拶へと向かった。

頂点を目指した、最後のゲーム。

私はサッカーが好きだった。

 

私は思い出すだろう。

芝から立ちのぼる春の匂いの柔らかさを。

土のグラウンドに落ちる夏の影の黒さを。

顔の火照りを鎮めてくれた秋の風の涼しさを。

雪道を走るときに耳に刻んだザクザクという冬のリズムを。

そして、

味方のキーパーが指示を出す声。

いいゲームができた時の監督の笑顔。

試合後に握手を求めてきた相手選手の眸(ひとみ)に宿る光。

大きな声で応援してくれたお母さんと、困ったような顔で見つめていたお父さん。

全国大会の会場になった何万人も入る大きな競技場。

歓声。

涙。

私はサッカーが好きだった。

 

ある日私は、校内放送で応接室に呼び出された。

監督の隣に、知らない男の人が座っていた。監督がその人のことを紹介したけど、緊張していてよく聞き取れなかった。

その人は言った。

「宮城に日本一の女子サッカーチームをつくるんだ。君に、来てほしい」

 

 

宮城は女子サッカーの強豪県だ。特に高校年代は強い。

昨年の全日本高校女子選手権の決勝は、宮城県勢どうしで争った。常盤木学園が日本一、聖和学園が準優勝である。ちなみに、その前年は聖和学園が優勝した。

男子サッカーに比べると注目される機会は少ないが、日本は女子サッカーでも、世界の中に地位を占めつつある。今年は女子ワールドカップの年で、ブルーのユニフォームを着た日本代表の活躍が期待されている(開催国は米国)。フル代表以外にも、U19からU12まで各年代の代表チーム結成や強化合宿が行われているのも男子同様だ。

女子サッカーの質の向上が、国内の競技人口の増加と人気の上昇に支えられていることは明らかだ。トップリーグであるLリーグは一九八九年に発足した。国体では一九九七年から正式種目になり、男子の天皇杯にあたる全日本女子サッカー選手権も毎年開催されている。

もちろん、女子選手が競技を続け、トップを目指して力を伸ばしていくための環境は今も厳しい。宮城県の場合、小学生の時にはスポーツ少年団で男子に混ざってプレーし、地区ごとに女子選抜チームを組むこともできる。しかし中学生になると近くに女子のクラブがない限り、学校の男子サッカー部に入部することになる。近年は選手として公式戦に出場することも可能だが、男子との体格の差が顕著になる年代でもあり、上を目指す選手は、週末ごとに遠方の女子クラブチームに合流して試合経験を積むことになる。だからこの年代では、女子クラブチームの数が多い東京や大阪といった大都市が圧倒的な強さを誇っている。

しかし高校年代では、宮城の強さは全国的に有名だ。先の二校の他にも石巻女子商業など実績と伝統を持つ高校が多くあって高いレベルで競い合っており、年代別の日本代表にも選手を輩出している。

こうした盛り上がりの中、「二〇〇一年のみやぎ国体で優勝できるチームを」という県を挙げての要請に応えて、三本木町のYKK東北工場に女子サッカー部が誕生した。一九九七年のことである。愛称のフラッパーズは「おてんば娘」という意味だ。

宮城県出身の選手を中心に、実力を持ったメンバーが三本木に集結した。監督には、アトランタ五輪に出場した全日本女子チームでゴールキーパーコーチを務めた齋藤誠氏が就任。工場の構内には天然芝のグラウンドやクラブハウスも完成し、練習環境も整えられた。もちろん全員がYKK東北の社員として働く。

五年目の開花を目指したフラッパーズだったが、チームの士気は最初から高かった。一年目から東北では無敵の強さを発揮。早くも二年目には、宮城県代表チームとして参加した神奈川国体で、何と優勝するという快挙を成し遂げてしまう。四年目の富山国体では、またも優勝。この年から参戦したLリーグでも、いきなり4位という好成績を挙げた。

二〇〇一年十月、宮城国体。

地元開催で絶対に優勝をという強烈なプレッシャーの中、フラッパーズは勝ち続けた。連日の試合というすさまじいスケジュールに耐え、ついに決勝に駒を進めた。

相手は三重県で、Lリーグでも対戦しているチームのメンバーだった。試合は激闘になった。前半は0対0。後半17分に宮城が先制するが、3分後に追いつかれて延長戦に突入する。それでも決着はつかず、規程により両チーム優勝。

こうしてフラッパーズは宮城県の皇后杯獲得に貢献し、創部の目的の一つを果たした。

そして——

昨年の高知国体で準優勝。全日本女子サッカー選手権では、昨年までベスト4進出、3位と躍進。今やフラッパーズは国内でも指折りの強豪チームに成長した。日本代表チームにも、選手を送り出し続けている。

今年もLリーグが開幕した。昨年は振るわなかっただけに、フラッパーズは雪辱に燃えている。今は7チームが戦う東日本リーグの最中だ(ホーム&アウエーで12試合)。予選にあたるこのリーグで三位以内に入り、西日本リーグの三位までを加えて行われる上位決勝リーグに進出することが当面の目標である。来年からは東西を統合した上で二部制に移行することが決定しており、何としても1部に残れる成績を挙げなければならない。

フラッパーズのメンバーは18人と、まさに少数精鋭。シーズン中も、彼女たちはフルタイムで働いた上でサッカーをしている。月曜から金曜までは午後5時まで仕事をし、午後6時から9時までが練習だ。土曜日は練習、日曜日は試合。たとえアウエーのゲームで長距離の移動があっても、月曜日の朝は、また工場での業務に就く。

宮城の地から、国体の熱気はとうに去った。

しかし、彼女たちの戦いは今も続いている。

 

【取材協力】

宮城県サッカー協会

YKK東北女子サッカー部フラッパーズ

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

以上は2003年、仙台のタウン誌『Kappo 仙台闊歩』に書いた原稿である。

文中に「Lリーグ」とあるのは、現在の「なでしこリーグ(日本女子サッカーリーグ1部)」である。そしてフラッパーズも、今はもう存在しない。

2004年、チームが東京電力へと譲られることが決まった。チーム名は「東京電力マリーゼ」に、そして本拠地は、福島県の太平洋岸にある「J-ヴィレッジ」に変わった(双葉郡楢葉町)。

2005年から選手たちは、今度は東京電力の社員として働きながら、福島のサポーターの熱心な声援を受けて戦った。

チームは一時不振に陥り、2部落ちも経験した。しかしその後復帰し、上位争いを演じるようになる。

2011年3月11日、東日本大震災で東京電力の福島第1原発が壊滅。間もなくチームは活動の自粛を発表した。

その7月。女子サッカーの日本代表チームが、ワールドカップにおいて快進撃を続けた。日本時間の7月18日の早朝、日本代表は決勝で米国をPK戦で降し、世界一のタイトルを獲得した。もちろん史上初である。

日本中がこのニュースに沸く一方で、東京電力はリストラの一環として、マリーゼをはじめとするスポーツ活動をすべて廃止すると発表。選手の多くは行き先が決まらないまま、不安な日々を過ごした。

同年10月。日本女子サッカーリーグは、マリーゼの移管先にJ1仙台を承認。今彼女たちは、ベガルタ仙台レディースとして戦っている。(2017年8月1日記)

*写真は「ぱくたそ」より。

ゲルニカからゲルニカまで

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*2009年1月14日執筆

1981年までゲルニカの存在を知らなかった。
美術への関心は薄かったし、自分の絵の才能は小学生のうちにあきらめていた。

ピカソの絵とスペインの街ゲルニカを知ったのは、絵がニューヨーク近代美術館からマドリッドのプラド美術館に移されることになった、という新聞記事によってだった。
1937年にパリで描かれアメリカに預けられていた壁画は、スペインに自由が戻るまでは、というピカソの遺志(1973年没)によって、フランコ将軍(1975年没)支配下の故国に返還されることはなかった。しかし、ついにそれが叶う日が来たというニュースだった。

大学生だった私は「カッコいいな」と思った。
絵そのものは、記事に添えられた小さな写真を見て「ピカソらしいぶっ飛び方だな」と感じただけだ。人気のある芸術家であるピカソの、独裁政権に対する姿勢をカッコいいと思ったのだ。
だからこの年、大学の自治会執行部から頼まれて反核をテーマにした立て看(ベニヤ板の看板)を描くことになったとき「よし、ゲルニカを模写しよう」と考えた。

立て看にはいろいろなサイズがあるが、縦が2m、横が4.5mくらいの、最も大きいものに描くことになった。本物は3.5m×7.8mあるから縮小することにはなるが、それでも大仕事だ。
そう、それはお金をもらってやる「仕事」だった。

その年、馬鹿な私は馬鹿な友人や後輩たちに声をかけて、広告研究会という馬鹿なサークルを作った。学校の教員になろうと思って入った大学だったが、やっぱりやめてメディアを作る仕事に就こうと思ったのだ。後輩たちに「チキンラーメンはおいしい。広告を作るからと言って日清にサンプルをもらいに行ってこい」と言うと、彼らは本当に一箱もらってきた。ラーメンは1週間もしないうちに全部食べてしまったが、広告はできなかった。

絵心のある友人に「特に活動もないし、ヒマだから立て看でも描こうぜ」と言うと、彼はトラペンアップというものを持ち出してきた。OHPで投影するためのフィルムを印刷物から作ることができるという優れもので(当時実物投影機はなかった)、大学の備品だから先生に願い出ると無料で使えた。
彼は当時人気のあったイラストレーターの作品を拡大して下絵を描き、アクリル絵の具やエアブラシを使って立て看に仕上げてみせた。見事な出来だった。

「よし、これで稼ごう。」
私は学内のサークルにチラシを配って注文を取ることにした。演奏会などのPRに立て看を使う部はあったが、われらが広告研究会のテクニックは図抜けていたので、安いながら注文がいくつか入った。そして8月が来る前に、自治会執行部から「内容は任せるから反核をテーマに1枚」というオーダーをもらったのだ。

立て看は一晩で描く。
天気の心配があるから屋内で作業する必要があるが、私たちにはアトリエなんか無かった。授業が終わった後の教室を使って、朝、授業が始まるまでに仕上げて屋外に掲示するのだ。私たちの大学は当時、特に届け出をすることなしに、そういうことが認められていた。果てしなく学生を信用する、無茶な大学だった。
例の絵心のある友人と、私の二人で描くことになった。自治会執行部から、女子が一人見に来た。

立て看のベニヤ板から、前に描いてあった模造紙をバリバリとはがす。立て看を寝せる。糊を水で溶いて新しい紙に塗り、二人で広げながら貼って行く。乾くのを待つ。
立て看を立てる。部屋の灯りを落とし、用意してあったゲルニカの絵をOHPで投影すると、3人から「おおっ」という声が漏れた。原画にした画集のサイズで見たときには感じなかった迫力に圧倒された。
ゲルニカはほぼモノクロの作品だ。原画通りに画面を区切り、何種類かのグレーと黒で塗りつぶして行けば模写できるはずだった。絵心の無い私でも、これなら役に立つ。二人で手分けをして、映し出された輪郭線を鉛筆でひたすらなぞった。

一息つくたびにインスタントコーヒーを飲み、カップラーメンをすすった。そうして私たちは、一晩中ゲルニカを描き続けた。描くうちに、「これは凄い絵だ」ということが私にも分かった。
何が「凄い」のかは分からなかった。ただ、ピカソの、死んだ人々の、ゲルニカの街を爆撃した者たちの、人間としてのエネルギーが生で感じられるような気がした。
「これは凄い絵だな」と言うと、二人も同意した。

アクリル絵の具で塗りつぶしていくたびに、ゲルニカが徐々に姿を現す。
夜明けが近づく。時間との闘いになり、私たちは無口になった。徹夜だからもちろん眠い。しかし若さと興奮で乗り切った。

最後に下の空白に「HIROSHIMA,NAGASAKI 1945→1982」と、文字を入れて完成させた。大学の正門から見える真正面の芝生に運び出し、樹に立てかけて太い針金で固定した。
教室に戻って大急ぎで後片付けを済ませ、朝、学生たちが乗ってきたバスに乗って山の上の大学から降りた。一眠りしただけのつもりが、起きたら夕方になっていた。

私は思った。「いつかスペインにゲルニカを見に行こう。」
私はこの年21歳だった。まだ若く、そのうちきっと叶うだろうという自分の考えを疑わなかった。
そして私は48歳になった。

 

海外に行く機会は一度だけあった。しかし26歳のときに行ったのは中国だった。
高校時代から興味があった歴史の舞台を見たかったのと、父方の祖父と子どもの頃の父が暮らしていたことのある東北地方に足を踏み入れたかったのだ。1ヶ月の旅でそれを果たした。

しかしこの旅行に出るために、私は勤めを辞めた。その後は不安定きわまりないフリーランスとして生活に追われ、カネも無ければ長い休みも取れない状態が続いた。やがて子どもが生まれ、妻が病を得て、海外旅行は夢のまた夢になった。
パスポートは押し入れの奥で、ひっそりと期限が切れた。

いつかはスペインに、ということを忘れたわけではなかった。それどころかサントリーウィスキーのTVCMを見てガウディを知り、「これはバルセロナにも行かなければ」と思った。しかしどうにもならなかった。

ピカソの作品は見た。日本で。
最初はゲルニカの立て看を描いた翌年(1982年)の秋に宮城県美術館に来た「ピカソ陶芸展」だった。美術に疎い私は、それまでピカソが絵画以外も手がけていたことさえ知らなかった。しかし私にとってこの展覧会は、宮城県美術館で開かれた特別展の中でも、特に気に入ったものになった。
前年に宮城県美術館が開館したおかげで、私にも少しずつ美術展を見る習慣ができつつあった。

こうして私はピカソが好きな、地方在住の平凡な美術ファンになった。
ピカソ展が来ると聞いて、東京まで足を伸ばしたこともあった。晩年の小さな版画ばかりを集めた展覧会では、辟易(へきえき)という言葉の意味を知った。それでも私はピカソが好きだったし、いつかはゲルニカを見にスペインへ、という気持ちは忘れなかった。

1992年、ゲルニカはプラド美術館から、同じマドリッドのソフィア王妃芸術センターへと移された。さらに時は流れ、21世紀になった。
立て看を描いてから、四半世紀が過ぎた。

ゲルニカのどこが「凄い」のか。あのとき感じた「凄み」の正体は何だったのか。
私にはそれを言葉にする能力はなかったが、いくつか本は読んでみた。美術評論はどれも難解で、しかもむやみに長く、私の読解力と感性を嘲笑(あざわら)って足蹴にした。
しかし宮下誠氏の『ゲルニカ~ピカソが描いた不安と予感』(光文社新書/2008年)は最後まで読めた。そして理解できた。
本にも力があると思うが、著者が自分と同世代だということもあるかもしれない。サルトルを引いて実存的不安にも言及しているが、これも学生時代に(翻訳だが)親しんだ思考パターンで苦にならなかった。

2008年。
東京で久しぶりに大規模なピカソ展が開催された。パリのピカソ美術館が改修に入るにあたって行われた、世界的な巡回展の一環だった。私は一人高速バスで東京に向かい、10月12日、国立新美術館とサントリー美術館を巡った。
私にとって、ピカソはやはり楽しかった。多くの作品は笑いをこらえながら見た。熱心に説明文のプレートを読んでばかりいる人たちが、不思議でならなかった。
展示を見終わって国立新美術館の中をぶらついている時、携帯が鳴った。旅行代理店のH.I.S.からだった。「大泉さん、すみません。バルセロナからマドリッドに行く飛行機の時刻が、また変更になりました」「いいですよ。お任せします」

そうだ。
私は中国旅行以来、22年ぶりに『地球の歩き方』を買い、22年ぶりにH.I.S.の店に入ったのだ。私が「本当は若いうちに行きたかったんだ」と言うと、H.I.S.の若い男性担当者は「そのお年で航空券と宿だけ取ってヨーロッパに行こうというんですから、気持ちがお若いですよ」と言った。
12月27日、私はパリ、バルセロナ、マドリッドを巡る2週間の旅に出た。

 

パリ。
オルセーでは「草上の昼食(マネ)―ピカソと巨匠たち」展が、ルーブルでは「ピカソ‐ドラクロワ」展が開催されていて、ざっと見ることができた。しかしいずれの美術館もが初めての身にとっては、代表的な所蔵品を駆け足で巡る方を優先せざるを得なかった。
せっかく開催中だったグラン・パレの「ピカソと巨匠たち」も見られなかったし、ピカソ美術館も行けなかった。

年が明けて2009年1月4日。
バルセロナのピカソ美術館を訪れた。10代の作品のコレクションで知られ、「初めての聖体拝領」「山岳風景」「科学と慈悲」などを見ることができた。

1月7日、マドリッドのソフィア王妃芸術センター。
午前9時45分。開館15分前に到着したが、一番乗りではなく二人目だった。
開館する。荷物のX線検査を受ける。チケット売場を通過する。この時点で前には誰もいない。
右のエレベーターで2階へ。動悸が高まる。ゲルニカは一番奥だ。早足で一目散にその部屋を目指す私を、係員たちがぎょっとした表情で見る。
出た、牛の頭だ。絵の左端が、部屋の出入り口から見えた。

(中略)

私は30分ちょっとの間、ゲルニカを見続けた。想像以上に大きかった。
ガラスも手すりもない。近づき過ぎると警告のブザーが鳴るが、私は2回鳴らした。
その間、見に来た人は10人足らず。ほぼ独占することができた。
やはりゲルニカは「凄い」絵だった。

隣室にはゲルニカのための多数のスケッチが、制作過程を追ったドラ・マールの有名な写真が展示されている。しかし私には、1937年パリ万博のスペインパビリオンの模型がひときわ興味深かった。作品は1階にあり、絵の枠の左下にはパブロ・ピカソ、右下にはゲルニカと入っていたのだ。

この美術館が気に入った私は、軽食をとったりブックショップを覗いたりして、結局5時間近くをそこで過ごした。午後2時半、最後にもう一度ゲルニカを見て、私はソフィア王妃芸術センターを後にした。
こうして立て看への模写に始まった、私の27年に及ぶゲルニカの旅は終った。自分が美術に関心を持った最初のきっかけに対面し、気持ちの整理をつけることができた気分だった。

ソフィア王妃芸術センターは子どもたちのためのワークショップに力を入れているらしい。10歳から15歳くらいの10人ほどのグループが、ミロの大きな絵の前で模写に励んでいた。皆、床に寝そべって。
私はこうした教育を受けることができなかった。あの子どもたちのようには美術と出会わなかったし、作品と親しむことができるようにはならなかった。
しかし悔いがあるわけではない。私は私に与えられたかたちで、美術に、ゲルニカに出会い、そしてオリジナルに対面することができた。これは僥倖(ぎょうこう)だと思っている。

ようやく句点を打った旅行者は、慌ただしく次の美術館へと向かった。