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2015年11月某日。岩手県花巻市。

花巻市に編入された旧大迫町には、宮澤賢治の童話「猫の事務所」のモデルと言われる建物が復元されている。

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かつては稗貫郡役所。現在は花巻市大迫交流活性化センター

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このあんどんだけでなく人間サイズの猫の人形もいて、一緒に写真が撮れる。

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早池峰ダム湖畔の道の駅「はやちね」にて。モニュメントのモチーフは同じく「どんぐりと山猫」だ。

宮澤賢治ゆかりの地はかなり訪ねているが、この2カ所は初めてだった。

この日は一関市の温泉に宿泊した。

 

三本木ギャザリング

*初出:2003年『Kappo 仙台闊歩』

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私は頭を使うのが大好きだ。

だけど頭とは、どこからどこまでを指すのだろう。

この点について、私とお母さんの意見には相違がある。

お母さんの説では、額は顔の一部であって頭ではない。

「だからお願い、ヘディングはやめて」

と言う。

だけど私の見解によれば、首から上はぜんぶ頭だ。

どこに当たっても、ゴールに入りさえすれば、実に喜ばしい。

高くていいクロスが来る時、私にはピッとわかる。

幸福の予感に包まれ、ひねりを加えながら頭でシュートを放つ瞬間。

私はサッカーが好きだった。

 

もちろん私だって顔は大切だ。

敵のフリーキックを顔面でディフェンスしてしまい、盛大に鼻血が出た時は悲しかった。

サッカーをやめろと言われるのが怖くて、試合が終わっても、腫れがひくまで家には帰れなかった。

ファミレスの一番奥の席で、顔に濡れタオルをかけたまま、仰向けに寝転がっていた。

帰りが11時を過ぎて、やっぱり怒られた。

私はサッカーが好きだった。

 

傷(いた)むのは顔だけじゃあない。

当然、足が一番傷む。

あっちこっちに痣(あざ)ができ、爪は紫色だ。

スカートやサンダルが楽しめないのは、ちょっと悲しい。

ウチは女子高で、制服はスカートでソックスは短い。

夏に、どうしても水着を着なければならない時なんか最悪だ。

だけど、不思議だ。

ユニフォームのパンツ姿が気になったことは一度もない。

これは、長いソックスのせいだけじゃないと思うな。

私はサッカーが好きだった。

 

お答えいたします。

サッカーというのは球を蹴り合うスポーツで、脚を蹴り合うものではありません。

しかしスライディングタックルは、合法とされています。

ボールを蹴るとほめられ、相手の足を蹴るとファウルになり、無理な位置からそれをするとイエローカードになり、意図的と認められるとレッドカードで退場になります。

それぞれは、0コンマ何秒かの差で起こるに過ぎない、という意見もございます。

また、ボールをもらったり奪ったりに適したポジションとか、コーナーキックのボールをシュートしたり阻止したりに適したポジションというのはおおむね決まっております。

敵味方に別れていても、「どうしてもこの場所にいたい」という気持ちは一致してしまいます。

以上、なぜあんなに激しく、しょっちゅう体当たりをし合わなければならないのか、というご質問にお答えしました。

お母さんは、分かりましたか?

私はサッカーが好きだった。

 

好きな人は、いた。

中学の時。

だけどあまりに忙しすぎた。

平日は男子サッカー部に混じって練習。

肩書きはマネージャーだったけど、私は今でもチームで一番得点のセンスがあったと思っている。

土日はバスを乗り継いで、遠くにある女子のクラブに参加。

私みたいに小学校までスポ少でやっていて、サッカーを諦められなかった中学生と、成人世代とが一緒に練習し、大会を戦った。

よく帰りのバスの中で寝てしまい、その度に乗り過ごした分を歩いて帰った。

高校生になれば女子サッカー部がある。

女子サッカー部のある高校に絶対に入る。

そう思って自分を励ました。

中学時代を思い出すと、なんか、三年間ずっと歯を食いしばっていた気がする。

二年の終り頃から、サッカー部の男子にどんどん身長で追い越されて行って、ヘディングで競り負けるようになった時も、悔しくて何度も泣いた。

好きな人は、いた。

中学の時。

だけど、

私はサッカーが好きだった。

 

ウチの高校はめっぽう強い。

日本で何番目かに強いと思う。

しかし困ったことに、宮城には他にも「日本で何番目かに強い」高校がいくつかある。

全国大会に行くまでが大変なのだ。

私たちは練習した。

戦った。

勝った。

負けた。

そして、また練習した。

それを繰り返すうちに、私は大変なことに気がついた。

それは、物事には始めがあれば、必ず終りがあるということだった。

私たちは三年生になり、気がつけば次の大会で引退しなければならなかった。

私はサッカーを続けたかった。

もちろん卒業後も、クラブチームに戻って続けることはできる。

でも本当は、私はまだ、もっともっと高いところを、日本で一番高いところや、世界で一番高いところを目指してみたい。

でも駄目だろうと思う。

高校三年間、ウチのチームは全国大会にはほとんど出場できなかった。

私の名は宮城では知られていても、他県のLリーグのチームから話があることは考えられない。

宮城にLのチームがあったらなあ。

そうしたら、私にもチャンスがあったかもしれない。

だけど、ない。

今度の最後の大会でも、私たちは宮城県で一番になることはできないだろう。

いや、言い訳はやめよう。

今はもう、引退を一日でも先に伸ばすために必死で戦うだけだ。

最後の最後の最後の瞬間まで。

私はサッカーが好きだった。

 

後半45分です。ロスタイム。私は今日得点しました。だけど相手チームの得点の方が1点だけ多い。お願いです。せめて延長戦まで私にプレーをさせてください。かなうなら、勝って、さらに全国大会でも。私はまだ大丈夫です。全然疲れてなんかいません。一度足がつりそうになったけど、もう治りました。私は永遠に走り続けられるんです。本当です。だから会場の時計を全部止めてください。そのクロス。最後のチャンスだ。私は無理なポジションから、ヘディングシュートを、放つ。バーにはじかれたボールが、ラインの外へ。私の背中で、試合終了を告げる長いホイッスルが鳴った。私は振り向いて、審判を見た。その笛を奪い取ろうとして手を伸ばした。だけど審判は、巧みに身をかわし、私を振り切って行ってしまう。私はグラウンドに倒れ込んだ。グラウンドに突っ伏したまま、泣いた。大きな声で。涙は止まらなかった。人間ってこんなに涙が出るものなのかって思うくらい泣いた。私の涙で、グラウンド中が水浸しになった。もっともっと泣いて、どんどん溢れ出して、やがて世界中が水浸しになった。今度はグラウンドだけ水が引いて、まるでノアの方舟のように、水没した地球の上にぽっかりと浮いた。再びホイッスルが鳴って、私たちはゲームを始めた。永遠のゲームを。

それから私は、チームメートたちに抱きかかえられて挨拶へと向かった。

頂点を目指した、最後のゲーム。

私はサッカーが好きだった。

 

私は思い出すだろう。

芝から立ちのぼる春の匂いの柔らかさを。

土のグラウンドに落ちる夏の影の黒さを。

顔の火照りを鎮めてくれた秋の風の涼しさを。

雪道を走るときに耳に刻んだザクザクという冬のリズムを。

そして、

味方のキーパーが指示を出す声。

いいゲームができた時の監督の笑顔。

試合後に握手を求めてきた相手選手の眸(ひとみ)に宿る光。

大きな声で応援してくれたお母さんと、困ったような顔で見つめていたお父さん。

全国大会の会場になった何万人も入る大きな競技場。

歓声。

涙。

私はサッカーが好きだった。

 

ある日私は、校内放送で応接室に呼び出された。

監督の隣に、知らない男の人が座っていた。監督がその人のことを紹介したけど、緊張していてよく聞き取れなかった。

その人は言った。

「宮城に日本一の女子サッカーチームをつくるんだ。君に、来てほしい」

 

 

宮城は女子サッカーの強豪県だ。特に高校年代は強い。

昨年の全日本高校女子選手権の決勝は、宮城県勢どうしで争った。常盤木学園が日本一、聖和学園が準優勝である。ちなみに、その前年は聖和学園が優勝した。

男子サッカーに比べると注目される機会は少ないが、日本は女子サッカーでも、世界の中に地位を占めつつある。今年は女子ワールドカップの年で、ブルーのユニフォームを着た日本代表の活躍が期待されている(開催国は米国)。フル代表以外にも、U19からU12まで各年代の代表チーム結成や強化合宿が行われているのも男子同様だ。

女子サッカーの質の向上が、国内の競技人口の増加と人気の上昇に支えられていることは明らかだ。トップリーグであるLリーグは一九八九年に発足した。国体では一九九七年から正式種目になり、男子の天皇杯にあたる全日本女子サッカー選手権も毎年開催されている。

もちろん、女子選手が競技を続け、トップを目指して力を伸ばしていくための環境は今も厳しい。宮城県の場合、小学生の時にはスポーツ少年団で男子に混ざってプレーし、地区ごとに女子選抜チームを組むこともできる。しかし中学生になると近くに女子のクラブがない限り、学校の男子サッカー部に入部することになる。近年は選手として公式戦に出場することも可能だが、男子との体格の差が顕著になる年代でもあり、上を目指す選手は、週末ごとに遠方の女子クラブチームに合流して試合経験を積むことになる。だからこの年代では、女子クラブチームの数が多い東京や大阪といった大都市が圧倒的な強さを誇っている。

しかし高校年代では、宮城の強さは全国的に有名だ。先の二校の他にも石巻女子商業など実績と伝統を持つ高校が多くあって高いレベルで競い合っており、年代別の日本代表にも選手を輩出している。

こうした盛り上がりの中、「二〇〇一年のみやぎ国体で優勝できるチームを」という県を挙げての要請に応えて、三本木町のYKK東北工場に女子サッカー部が誕生した。一九九七年のことである。愛称のフラッパーズは「おてんば娘」という意味だ。

宮城県出身の選手を中心に、実力を持ったメンバーが三本木に集結した。監督には、アトランタ五輪に出場した全日本女子チームでゴールキーパーコーチを務めた齋藤誠氏が就任。工場の構内には天然芝のグラウンドやクラブハウスも完成し、練習環境も整えられた。もちろん全員がYKK東北の社員として働く。

五年目の開花を目指したフラッパーズだったが、チームの士気は最初から高かった。一年目から東北では無敵の強さを発揮。早くも二年目には、宮城県代表チームとして参加した神奈川国体で、何と優勝するという快挙を成し遂げてしまう。四年目の富山国体では、またも優勝。この年から参戦したLリーグでも、いきなり4位という好成績を挙げた。

二〇〇一年十月、宮城国体。

地元開催で絶対に優勝をという強烈なプレッシャーの中、フラッパーズは勝ち続けた。連日の試合というすさまじいスケジュールに耐え、ついに決勝に駒を進めた。

相手は三重県で、Lリーグでも対戦しているチームのメンバーだった。試合は激闘になった。前半は0対0。後半17分に宮城が先制するが、3分後に追いつかれて延長戦に突入する。それでも決着はつかず、規程により両チーム優勝。

こうしてフラッパーズは宮城県の皇后杯獲得に貢献し、創部の目的の一つを果たした。

そして——

昨年の高知国体で準優勝。全日本女子サッカー選手権では、昨年までベスト4進出、3位と躍進。今やフラッパーズは国内でも指折りの強豪チームに成長した。日本代表チームにも、選手を送り出し続けている。

今年もLリーグが開幕した。昨年は振るわなかっただけに、フラッパーズは雪辱に燃えている。今は7チームが戦う東日本リーグの最中だ(ホーム&アウエーで12試合)。予選にあたるこのリーグで三位以内に入り、西日本リーグの三位までを加えて行われる上位決勝リーグに進出することが当面の目標である。来年からは東西を統合した上で二部制に移行することが決定しており、何としても1部に残れる成績を挙げなければならない。

フラッパーズのメンバーは18人と、まさに少数精鋭。シーズン中も、彼女たちはフルタイムで働いた上でサッカーをしている。月曜から金曜までは午後5時まで仕事をし、午後6時から9時までが練習だ。土曜日は練習、日曜日は試合。たとえアウエーのゲームで長距離の移動があっても、月曜日の朝は、また工場での業務に就く。

宮城の地から、国体の熱気はとうに去った。

しかし、彼女たちの戦いは今も続いている。

 

【取材協力】

宮城県サッカー協会

YKK東北女子サッカー部フラッパーズ

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

以上は2003年、仙台のタウン誌『Kappo 仙台闊歩』に書いた原稿である。

文中に「Lリーグ」とあるのは、現在の「なでしこリーグ(日本女子サッカーリーグ1部)」である。そしてフラッパーズも、今はもう存在しない。

2004年、チームが東京電力へと譲られることが決まった。チーム名は「東京電力マリーゼ」に、そして本拠地は、福島県の太平洋岸にある「J-ヴィレッジ」に変わった(双葉郡楢葉町)。

2005年から選手たちは、今度は東京電力の社員として働きながら、福島のサポーターの熱心な声援を受けて戦った。

チームは一時不振に陥り、2部落ちも経験した。しかしその後復帰し、上位争いを演じるようになる。

2011年3月11日、東日本大震災で東京電力の福島第1原発が壊滅。間もなくチームは活動の自粛を発表した。

その7月。女子サッカーの日本代表チームが、ワールドカップにおいて快進撃を続けた。日本時間の7月18日の早朝、日本代表は決勝で米国をPK戦で降し、世界一のタイトルを獲得した。もちろん史上初である。

日本中がこのニュースに沸く一方で、東京電力はリストラの一環として、マリーゼをはじめとするスポーツ活動をすべて廃止すると発表。選手の多くは行き先が決まらないまま、不安な日々を過ごした。

同年10月。日本女子サッカーリーグは、マリーゼの移管先にJ1仙台を承認。今彼女たちは、ベガルタ仙台レディースとして戦っている。(2017年8月1日記)

*写真は「ぱくたそ」より。